2014年01月30日

そして関白殿は切腹した 〜石田三成書状2〜

仙台市博物館」シリーズ、
「石田三成から伊達家臣:針生盛信宛書状」後編でございます。


それに先んじて、前記事をちょっと直したいと。
三成書状本文についてですが、最後の行、

「『不能詳候』が難しいですね…「詳しく言えない?」のか??」。

って書いたんですけども…その後色々古文書見てたら、
他の文書で「不能細事候」という箇所があって。
書き下し文「細事あたはず候」⇒意味「細事については書きませんでした」と、
していたのを見たので…今回の文章も、

「不能詳候」⇒「詳しい事(ここには)書きません(でした)」と、
直したいと思います。
(前記事も当該箇所を直しました)


(うーんやはり自分ももう、
ちゃんと古文書読めるように勉強しないとイカンかなw。
だってさ、
いろんな所の博物館とかでいろんな古文書見ても、
ちゃんと読めないと…つまんないよね…(トホホ。

とゆ訳で、
上の解釈も今の自分レベルでのものなので…暫定的です。
これから少しでも上手く読めるようになったら、
もう少しちゃんとしたものに改める…と思います!。)


それでは本題でっす!。

伊達政宗公と三成に関連して、個人的に、
前からずーーーっと気になってる事があるんですよね。
それは「二人は実際どんな感じだったのか???」という事です。

何故なら…三成は敵味方がハッキリしてる人でしょ。
まあ政宗公が彼の味方…という事は無かったでしょうけど、
殿様はそもそも人を喰った人だし、三成の実力は認めていたと思う。
三成の方だって、
たとえ政宗公が好きじゃなくても(好きだとは聞いた事ないよねw)、
それで怯むようなタイプじゃないしw、
なにしろ太閤殿下の一の臣たる三成な訳なので、
そんなの気にしなかっただろうけどねw。

でも、その辺、
実際はどんなだったんだろう…と長年妄想している訳です。

で、
それを知る手立てとしては…直やりとりの手紙かな〜と。
(あとは傍証として、第三者の日記とか書状とか…)
特に政宗公という武将は、
皆さんも御存知のように、ホントに現存する書状が多い人ですよね。
それなのに、
政宗公から「三成宛の書状」(或は「三成からの書状」)って…、
その存在の有無を見聞きした事が無くて。

あんまりお互いに関心が無かった間柄だったのかもしれないけど?、
でもこの二人は関係無いまま過ごせないポジションだし、
自分はそこそこ長く歴史ファンやってるつもりなので、
幾らなんでも両者の通信について、
全く知り得ないというのも…ちょと変だなって、
いつも思っていまして。

なので、
今回やっと「それ(にあたるもの)」を見れた!!、
やっぱあるよね…そりゃあるよ、
太閤殿下の三成様ですよ、無い訳ないよねww、
って言うのが一番の感想ですwww。


まあでもこれ、そうは言っても、
政宗公へ直接宛てられたものじゃないんですけどね。

当時、どこかの家の家臣が、
「よそのお殿様に直に書状出す」というよりは、
「その側近へ出して、お殿様へ内容を伝えてもらう」、
という事がよくあったらしいので、
これもそうかな…と最初は思いましたが、
この書状の日付は1595年。
盛信が政宗公に仕えたのは1602年とする説を読んだ事があって、
それを採用すると、この頃はまだ家臣ではない…という事になりますね。

ただ、
針生氏は伊達小次郎の蘆名家入嗣を推していた人らしいんで、
当時から伊達家寄りだったみたいだし、
だいたい、二代目小十郎の最初の正室が針生氏なので、
大事な片倉家へのお嫁さんは片倉家と釣り合いの取れる、
重要な所から貰うのが筋という事で…、
1595年には仮に家臣では無かったとしても、
実質的にはかなり伊達家にとって近く大事な家だったのでは…と思います。

だから、
秀次事件では政宗公も一味していたと疑われてた事もあるし、
文中の「上洛してください」って所は!、
奉行としての三成から、針生氏を通じて、
まさに政宗公に、
「太閤殿下の所へ出頭せよ」的なものを伝える手段の一つではあったのかも。

(しかしこれは私信じゃないので、
自分的に知りたい「三成の心情」とかは…、
深い所までは全然分からないですけども^^;)


で、更に、
三成が「針生氏を選んで」書状を書いた理由としては…。

前にもちょと触れたんですが…、
三成の出自は「蘆名家」という説が。

どゆ事かというと…、
蘆名家の出自は元々、相模国蘆名(横須賀市芦名)だそうで、
三浦氏が蘆名氏を名乗ったのが蘆名氏発祥と。
で、ここから会津蘆名家や石田家が出た…という話が。
(でもこれも「三成側の自称」という異説もありまして、
色々分からない事は相変わらずテンコ盛りですがwww。)

つまり、
そもそもは「遠い親戚関係?」を手繰っての、
三成と針生氏の関係があって、
その上の書状…という事もあるかもしれないなあ…と。

そして更に。

小田原の陣の頃に話が戻るのですが。
太閤秀吉と三成は、
「当時なかなか小田原に現れない(=秀吉に屈しない)政宗公を、
討とうと考えていた」らしい事が『会津旧事雑考』に書かれていると、
小和田哲男さんの本で読みまして。

三成はこの頃、
蘆名氏旧臣:金上氏へ兵糧米・鉄・鉛などを送って、
対伊達戦の準備をさせていたそうで、
秀吉も、蘆名遺臣を組織し佐竹義重や上杉景勝を協力させて、
蘆名旧領を奪還しようと考えていた…と。

蘆名氏旧臣!そして金上氏!。
前項に書いた通り、針生氏も蘆名旧臣ですよね!!。
そして針生氏も蘆名家の血筋。
もうこの時には既に、三成と針生氏の間でやりとりがあったのかも。
で…そこからずっと下って、この秀次事件の時にもこんな書状が…。

うーん。
そんな事を考えると…、
三成ってやっぱり色々と用意周到というか、
根回しもできる人じゃないかなあ…。

そして彼は実は、後代の巷の印象とは真逆で、
「(切腹の危機にあった)秀次の事も擁護した」という説も見るしね。

でもそんな三成なのに、
秀吉恩顧の武将達とはあれほどハッキリ敵対しちゃって…。
ホントに(そこには)一体何があったのか?。

そして伊達さんとの間はどんなだったのか!!。
なんの感情も無いって事は無いと思うんだよね。
(少なくても政宗公の方は特にwww)
うーーーーーんんん。
これからも…個人的に、
これはずっと気になり続ける気がするwww。

三成ってやっぱり興味深いな。
posted by 夏草 at 18:59| Comment(0) | 仙台市博物館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月24日

そして関白殿は切腹した 〜石田三成書状1〜

引き続き「仙台市博物館」で見て来たシリーズです。


今日はなんと!「石田三成からの書状」です!!!。


石田三成書状

針(針生)民部太輔(盛信)宛
文禄4(1595)年7月25日


「預飛礼本望ニ存候

 今度関白殿御逆

 意顕形ニ付而、御腹
 
 被召、一味之面々悉相

 果、毛頭無異儀相

 済候迚 可為御上洛候

 間、期面談、不能詳候

      石治少
         三成(花押)

  七月廿五日

    針民部太輔殿
        御返報   」




おおーーーーーーーーー!!。
これはいろいろ興味深いですね!!!。

まずは内容。
またざっくりと挑戦してみますwww。
「(「預飛礼」が不明)本望に存じ候」。
「今度関白殿の謀反が露見して、御腹召され(=切腹した)」とあるんで、
これは秀次事件ですよね!!、
「一味の面々もことごとく相果て、全く異議無く済んだ」と。

そして…ますますここから解釈に自信無いんですけど、
「といっても、御上洛されるべきなので面談したい??」
「詳しい事は(ここには)書きません(でした)」…かな???。

調べてみたら…書状の日付:文禄4年の7月25日って、
秀次の死から僅か10日後でした…。
…生々しいですね…。


そして。

書きたい事が多いので、
今日はまず…針生氏について、です。

この針生盛信って、
二代目小十郎:片倉重長さんの先妻の祖父ですよね!。
(重長の義父は針生盛直)

実は、針生盛信は元々蘆名家の重臣…というか、
蘆名家14代当主:盛滋の曾孫…つまり名門:蘆名家の血筋らしい。

で、政宗公が「摺上原の戦い」で蘆名家を滅ぼす事になる前夜、
蘆名家中で家臣団の対立が起こり、
その事が蘆名家を実質的に分裂・弱体化させたと言われている訳ですが、
その中心にあったのが、この針生盛信vs.金上盛備の争いだったと…。

ちょと寄り道しますと…、
この時の経緯はどういう事だったかというと、
ご存知の方も多いアノ話です。

蘆名18代当主(彼は二階堂氏の血筋)盛隆が、
男色のもつれから小姓に殺害され、
(↑「綺羅、星の如く:南奥州戦記3 〜奮戦!鬼義重1〜」
http://ikiikien.seesaa.net/article/239052785.html でちょと書きました)
まだ乳幼児であった亀王丸が19代当主になったらしいのですが、
この子も三歳くらいで病死してしまい、
蘆名家の家督相続者が居なくなったので、
政宗公が弟:伊達小次郎を蘆名家に入嗣しようと画策した…と。

これにも背景がありまして、
亀王丸の母は伊達晴宗の娘:彦姫(四女)という事で、
(政宗公の叔母さんになりますよね)、
これこそ伊達家勢力拡大と弟の身の振り方としては渡りに船と、
政宗公は蘆名家への小次郎君入嗣を推進したと思われ。

しかし、それを挫いたのが…金上盛備で。
彼が佐竹氏から結城義広を迎える事を強行したという…。
これで…義広に付き従って来た佐竹からの家臣団と、
元々の蘆名家臣団とが結束せず、、
結果的に伊達家へ内応者も沢山出してしまったと…。

(そういう事から…結局、
金上盛備さんは蘆名義広さんを守って「摺上原」で討ち死、
後に「三忠碑(=殿を守って亡くなった三人の碑)」の人となる訳ですね…。
(因に、他二人は、蘆名四天のうちの一家:佐瀬氏の佐瀬種常・佐瀬常雄)
なるほど、このような流れだと、
最期、義広さんの楯になろうという心境も理解できます。)



で…針生盛信さんの方は「摺上原」の後、
秀吉から竜ヶ崎に所領を与えられて家が存続したらしい。
そして慶長7(1602)年に政宗公に仕える事になり、
(関ヶ原の二年後ですね…)
永代客分として準一家相当の家格となった…という話を読んだ事が。

因に、大坂の陣の時には、
針生盛信は「白石城留守居役」だったそうですよ!。
これはやっぱり…片倉さん家との関係性故、でしょうね。
(そういえば…重長さんからも同じ「大坂の陣」の時、
「政宗公の御働きが随一」と書かれた盛信さんへの手紙、
以前同じく仙台市博物館で見ました!。)

そうそう、
寄り道ついでに付け加えると…、
盛信さんの曾祖父の蘆名盛滋という人もその昔、
その父:蘆名盛高と争った事があり、この時、
伊達家を頼った事があったらしい。
その後盛滋は父と和解して蘆名家に戻ったらしいけど、
もうとにかく…やっぱり奥州の人間関係というか、
入り組んだ経緯って凄いっすね(トホホ。


とゆ事で。
そんな針生盛信さんが、どうして三成の御指名を受けたのか!、
(=書状の宛名となったのか!)、
それについてのよもやま妄想は次回!!!。

いやホントにね…この辺、いろいろ面白いと思うんですよ♪。

posted by 夏草 at 01:41| Comment(0) | 仙台市博物館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月23日

腹の探り合いなのでござる!

断続的に続く「仙台市博物館」シリーズ。

今回のは…去年実家帰った時に見て来た古文書なんですが、
これね!、
蒲生氏郷から政宗公に宛てられた書状です。
例の葛西・大崎一揆の時の、木村吉清・清久親子救出の!。
氏郷と政宗公、
両者和解のために取り交わした起請文(誓約書)という事で…。



蒲生氏郷起請文

伊達左京太夫(さきょうのだいふ=政宗公)宛
天正18(1590)年11月28日



『一、今度佐沼後巻仕付而 政宗無ニ以御覚悟

我等同然二相働、木村伊勢守父子助申儀、無

比類次第、偏対 上様、御忠節之事

一、如此之上者 葛西大崎之儀 政宗江被預置候

様二 上様江御取成可申候事

一、此以来申談上者 自然申説等在之者、則其

名指有姿申理 不可有疎略事

右条々、対 上様於無御別心 少?為不、

可有之候、此旨於相違 此起承文御罰可能

蒙者也仍起承文如件

羽柴忠三郎

天正十八年十一月廿八日 氏郷(花押)(血判)

伊達左京太夫殿

参      』




いやもうね、蒲生さんからの起請文ですよ…。
実物見れて感無量でありました。

しかしすません、
古文書が上手く読めないんで、トホホなんですけども、
分かるような気がする所だけ(わはは)ムリクリ拾い読みしてみますと…、

一、この度は政宗が無二の覚悟で我等と共に働き?、
木村伊勢守親子を救出した事は素晴らしい。
これは上様(=秀吉)への忠節の証である事

一、葛西大崎の儀は、
政宗へ預かり置かれるようになるよう?、
上様に取りなし申し上げる次第である事

(最後の「一、此以来申談上者〜」の部分が頗る分からないですねえ。
「粗略にしないように」だけはなんとか分かるけどw。
でもって…起請文だから、
「これを違えたら罰していいよ」的な感じかと…。
すません、ここもちゃんと読めてませんで…。)


で、この日付、
天正18年11月28日って事はですよ、
木村親子を救出した直後って事ですかね…。
(この表記が旧暦だとすると…今の暦だと何時になるのか?。
一ヶ月遅れくらいなのかな。)


これ作った時って、
氏郷さん、内心すんごい怒ってたんでしょうね。
なにしろ「伊達政宗って一揆煽動してるらしいよ情報」が既に、
氏郷さんにはもたらされていた訳で。
「全く…とんでも無いヤツだ!!!(怒髪衝天)」的な時なハズですからねw。

でも起請文だけに「血判」も押してあったよ…。
こちらも気を引き締めて見ました。

これで「和解」という事だったのですが…そうは行かなくて、
翌年には石田三成が奥州(相馬)に来て、
政宗公に「上洛せよ」と伝える訳ですね。
この後、例の金の磔柱の行軍です…。

まさに波乱の渦中、
政宗公にとっても「乗るかそるか」の時期に受け取った書状ですね。
posted by 夏草 at 00:49| Comment(0) | 仙台市博物館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする