2012年10月08日

血風!森一族異聞2

さて。

今「森長可の撤退戦」の一体何に、そんなに拘っているかというと。

松本まで辿り着いた時、
鬼武蔵は結局、人質を殺してしまうんですよね。
「何故あの時、彼は人質を殺してしまったのか?」
その実像に少しでも迫りたい…という事なんです。

経緯は…長可側から見たらもう、
「それが鬼武蔵だから」的な解釈が成り立ちがちなんですけどw、
(すみません、自分もそんな調子にちょと乗ってました…)
どうも、春日昌元側を見てみると、
ただただ「鬼武蔵だから殺戮」という訳でも無い事が伺えたので。


整理すると…、

「一揆衆から森長可への人質は、長可が無事松本に着いたら解放する」
つまり、
「信濃から撤退する森長可には一揆衆は手出しをしない」という事で、
互いに一度は合意した(らしい)んです。

しかし、
一揆衆は納得行ってはいなかったのか、
約束を破って道中の鬼武蔵を襲ったりした…らしいのです。


一説には、
春日昌元(春日信達)は既にこの頃、大塚次右衛門の説得を受け入れ、
「とにかく次右衛門殿に頼入る」と誓紙を差し出し、
信濃の反森長可の一揆衆からは離脱した…という話もありまして。
(それはそうだよね…。
長可の手にある息子:森庄助の命を考えると…フツーはそうなるよなあ。
でも一度は叛旗を翻したんだよね、昌元さんて。
その時は息子の事は考えて無かったのか???。
いや、武士として息子の命にも替え難い信念があったのか?。
ていうか、滅ぼしてしまえば息子は助けられると思ったのか?。)


なんかどうもね、
大塚次右衛門さんの反勢力への説得というのは二三度あったらしく、
一度は相手を抑える事に成功し、
結果、森長可が川中島辺りを脱出するのには成功したものの、
千曲川周辺にさしかかった時、一揆勢が我慢できなくなったか、
攻撃を仕掛けて来たが、長可は撤退と見せかけ、
猿ヶ馬場峠という所で反撃し、逆に打ち負かしてしまったらしい。

分りにくいので、一応地図など作ってみました。(いやコレも分りにくいかもwww)

☆ホントーにざっくりした地図なので、
森長可の撤退ルート『越後⇒川中島/海津城⇒松本⇒木曽⇒美濃:金山』と、
ざっくりした位置関係だけ見て下さい。
☆国境とか、国の形、大きさも相当ざっくり描いてます。

onimusasi01.jpg


で、ですよ。

松本に至った森長可はですね、怒り心頭、
「人質を解放する」という約束を反故にし、
「庄助、お前にはこの世の暇を取らせる!」と言って、
アノ人間無骨で命を奪った…という事で……;。

この時、
複数の人質(一説には50人;)を、
殺めてしまったらしい鬼武蔵なのですが、
長可にとっては、
一度は臣従の意を表していた春日昌元(や国人)なのに、
ノブ様の突然の死で手の平を返したように自分を裏切った!、
しかも、
弱り目につけ込んで、
執拗な波状攻撃をしかけてくるなど!許さん!!的な、
出来事だったのか……と。

まあそれにしても…ホントに50人は…多いですよね。
いや1人でも悲惨ですけども。
しかしやはりこの人の周りには…凄い事が起こります…。


一方、
春日昌元さんなんですけれども。
彼の人生はどんなものだったのか。

お父さんがアノ春日虎綱(高坂弾正)という事なのですが、
自身は武田勝頼の家臣として北条と敵対するも敗走、
その後、
進軍して来た森長可に臣従したけど、こんな感じ、
最後は上杉景勝に仕えたらしいんですが、
再び北条が勢力を拡大して来るのを見て、
北条に鞍替えしようとして、
上杉景勝に誅殺された…という話で。


このね、
後世「変節」と呼ばれる生き方なんですけども、
真田昌幸さんくらい「戦上手&ハッタリも利かせられる戦略家」だと、
「それも真田の実力よ」となり?w、
周りも侮れない存在となって潰されないと思うんですが、
如何せん、そこまで行かない武将で、立ち回りが上手くないと、
こういう流れになってしまうのでは…と思いました。

そういう、春日昌元の「器量」というものも、
森長可の逆鱗に触れるものだったのかも…と今回思い、
ただただ鬼武蔵がキリングマシーンだから、
人質を片っ端から殺した訳では無かったのかもと…、
そんな感想を持ちまして。


しかし、同時に一方では、
いつも思いますよ…昌元さんクラスの武将達の必死さと、
なかなかそれが叶わない無念。
そして「何がそれを分けるのか」って事も。
まあ…全て「器量」って言っちゃ器量なんですけども。
でもね、切ないですね。



話を戻しますと。

そして自分はずっと、
この撤退戦に関して一つ大きな疑問があったんです。
それはね、

越後から信濃を通っての美濃への撤退戦なので、
途中、木曽も通るんですよね。
この時、木曾義昌の息子も奪って人質にしたらしいんだけど、
こちらはちゃんと返している。

どうしてあちらは惨殺、こちらは返還なのか。
長可としては、
何か木曾義昌に恩義があったのか(でも恩義あったら人質取らないしw)、
何か旨味があったのか。

結局ね、
義昌さんは森長可を攻撃しなかったらしいんです。
大人しく通してあげたと。
だから!。
流石の鬼武蔵もやたら殺傷した訳では無いと。
(いや…やたら殺傷した事もあったけどね)


という事で。
なんにしても血なまぐさい森家の異聞でした。

あ!…そうだった、コレだけじゃなかったよね。
弟:森忠政が川中島藩に返り咲いた時も、
「兄の仇」の「春日一族を殲滅」したんだった…。

……。

森さん家はホントーーーーーーーに!、
敵に回したく無いです…!!。

posted by 夏草 at 02:06| Comment(0) | 家族の肖像 〜森家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

血風!森一族異聞1

今日は当ブログ恒例の後追い記事です。

「権現様周辺の衆道」の話w」とか、
「帰雲城」の話とか、
「大徳寺散歩(続き)」とか始まっちゃうと、
これもなかなか間に挟めないような気がしたんで、
先にちょと書いてみますv。


お題は。
「森長可の信濃撤退戦の裏事情」ですw


そう!彼こそ!森乱(森蘭丸)の兄で、
”ノブ様の最終兵器”、
”戦場のキリングマシーン”、
”森家の鬼いちゃん”と異名を取る(ホントか!www、
ノブ様の可愛がってた鬼武蔵こと、森長可。


(で、うちの元記事はこちら…↓。
『血風!!森一族5 〜まっどていすと〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/171137561.html
この前半部分と…、

『血風!!森一族10 〜森家の血〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/173574858.html
これの「遺恨」についての段。)


内容をかいつまんで言いますと…、

ノブ様の命での甲州征伐の後、
越後へ進軍していた森長可だったが、
突然、本能寺の変で主を失い、
元々の森家の地盤:東美濃へ撤退する事になった…と。

このとって返しの道程途中、
この頃は森家の領地となっていた旧武田領の信濃において、
信濃衆が叛旗を翻したらしい。


それで鬼武蔵は。

「長可はまず敵から人々を奪い、これを人質として敵中突破した後、
自分に歯向かった彼等への怒りが納まらず、
<松本に着いたら人質を開放する>という約束を反故にし、
敵将:高坂昌元の子など多くを殺したと。
(もっともこの間、一揆衆も長可軍を襲ったりしてるみたいなので、
人質が介在しても、両者はやりあったらしいのですが…)」

と書いたんです、前には。


この流れを、
真逆の立ち位置「高坂昌元さんから見たら」という逸話を、
この度、よくお邪魔している歴史サイトで見まして。
(例によって、うちはふなので…リンクは御迷惑なのでできません…トホホ)

それによると。


まずね。
高坂昌元さんの名前の事なんですけども。
彼は勿論、武田信玄の譜代家老:高坂弾正の息子ですね。
お父さんは最近では、
「高坂弾正」より「春日虎綱(かすがとらつな)」の方の名前で、
書かれる事の方が多いですね。←高坂姓は短期間だったらしい
なので、
息子の昌元さんも…春日昌元、
或は名を信達として、春日信達(かすがのぶたつ)が正確とする見方も。

で。

まず、例の海津城。
武田領の時は春日虎綱さんのお城だったようで。
ここで虎綱さんは没し、確か息子昌元さんが継いだはず。
因に、昌元さんは虎綱さんの次男坊。
長篠の戦いで長兄が戦死したので…後継ぎに格上げされたと。

ノブ様がその後、武田を滅ぼす訳ですが、
海津城辺りが織田の勢力下に入った後、森長可が城主となったらしい…。

この時、春日昌元さんはですね、
鬼武蔵に息子を人質としてさし出し、
あっさり森長可の配下となった…という説が。
というか、寧ろ力関係から言って、
もしかするとこの表現は案外逆かもしれなくて、
森長可の方から国人達に働きかけ、多く人質を取ってた…事もあるのでは。

とにかく、結果、
森長可の所にはそれなりに地元有力者の子供などが、
「本能寺の変の前には」人質にされていた…のではないかと。


で、前の記事では自分的には、
旧武田軍の国人達は「ノブ様の横死でそら鬼武蔵に歯向かうよね」とか、
想像してみたんですけど…、
そういう側面もあったんじゃないかとは、
今でも思うんですけど、実はそれだけじゃなくて、
東美濃へ帰る事になっても、
長可が人質をなかなか家族へ返さなかったらしい。
それでみんなビックリして、
「返してくれ!!さもないとここは通さない!」と迫ったとか。

いや…だけどさ、
この局面で、幾ら無双の森長可だって返せないですよね。
だって、帰路の間中、
今やノブ様という強大な力を失った長可を侮って、
なにがしかの国人勢力&一揆勢に攻められる可能性が高い訳だし、
実際そうなったし。
(だけど…森長可を侮るっていうのも…、
ちょっと考え違いも甚だしい気がするのは、
自分が後世の人間だから…ですよねwww。)

で、実際その中でも特に、
春日昌元は一揆勢を率いて、撤退する長可を攻撃。
ここまでされちゃあ「鬼武蔵ですから」黙って無いですよ。

家臣:大塚次右衛門を立てて昌元を糾弾したそうな。
この時、人質の中には…春日昌元さんの息子:森庄助も入っていたので、
「長可様は庄助の烏帽子親でもあり、森姓まで賜っているというのに、
歯向かうとは何事だ!」と。

烏帽子親ってアレです、元服の時に烏帽子を被せてやる人の事で、
たいていは元服する息子と父にとって、
目上の尊敬する人とか優れた人になって貰うんですよね。

だがしかし!!。

春日昌元もかなり強気であったらしい。
息子が鬼武蔵の人質になっているというのに、
結構押し込んで行ったようで、
「人質を松本で解放する」という事と
「森家が通るのに手だしはしない」という事を交換条件にしたのに、
なんと…松本へ至るまでに、一揆衆は長可軍を攻めたりしてるらしい。

前に書いた時も、この事にこっちがビックリしたけど、
これはガチらしい。

もっとも、
案外一揆衆のある種の暴走なのかもしれませんが、
とにかく、
昌元の軍は「昌元側人質を取られていても、長可を攻撃した」という事で…。

その結果、お約束通り(つかなんつか…)血の雨が降る事に…。

以下次回☆。

posted by 夏草 at 02:41| Comment(0) | 家族の肖像 〜森家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月17日

血風!!森一族11 〜現世嵐は…美味し桃の実の夢〜

今日もまた…森家の華麗で壮絶な逸話の続きをv。
またまた戦国きっての美男登場でございますv。



現代の東京:六本木界隈の騒乱で、
今や時の人となった歌舞伎界のプリンスが、
今冬京都南座で演じるハズだった演目がありますね。

それは…『阿国歌舞伎夢華(おくにかぶきゆめのはなやぎ)』。

このお芝居自体は、平成10年に歌舞伎座で初演されたという、
とても新しいお話らしいのですが、
題材はもうホントに歌舞伎の始り、
「出雲の阿国」伝説に材を取ったものだそうで。

プリンスの役柄は…、
その阿国の恋人「名古屋山三郎(なごやさんさぶろう)」で。

名古屋山三郎。
そうなんですv絶世の美男として超有名なアノ人ですねv。

まずは彼、蒲生氏郷の小姓として歴史の表舞台に登場致します。
蒲生氏郷といえば。
知にも武にも秀で、そして人間的にも魅力のあった人らしく、
信長公に気に入られていて、妹を嫁に貰ってますよね。
そして…秀吉時代には会津に転封になって、
伊達政宗公と真っ向敵対した…あの人です☆。

そんな麒麟児な氏郷ですが、山三郎に初めて会った時、
「もの凄い美少女だ!」と大勘違い、
なんと…「嫁にしよう!!」と身元を調べたと「氏郷記」にあるそうで。

そこから氏郷の小姓に取り立てられたらしいんですが、
とにかくね、氏郷の家臣の間でも、
名古屋山三郎の人気はもの凄かったそうで。
それというのも、
山三郎は秀麗な容姿の上、槍のかなりの名手で、
しかも勇猛果敢、敵に真っ先に斬り込んで行く…という豪の者だったらしい。

氏郷自身が「真っ先に突っ込んで行く」タイプの猛将だったので、
山三郎も主君に似たのかもしれませんがw、
いやもう…綺麗だわ強いわ男気あるわって言ったら、
それは惚れますよねv男だって。
つか…男だからこそ惚れちゃうよね(わははは。

しかし。
氏郷は御存知のように病に倒れ、40歳で亡くなってしまいます。
これで山三郎は蒲生家を離れ(1595年)、京都で坊さんになるらしいんですが、
しばらくして還俗し、ここで…森忠政に仕える事に!!。

山三郎の妹:岩が忠政の側室だった事が、縁の端緒らしいのですが、
忠政は、山三郎の美貌、武勇の他、
茶道や和歌にも精通している所を気に入って取り立てたそうな。
(氏郷も利休七哲の一人だったくらいなので、
この辺の風流の道は蒲生家家風だったかもしれませんね)

そして山三郎は他の妹二人も、
森家家老:各務元政の次男?:各務正休と、
小沢彦八の所へ嫁に出しており…権勢をふるうようになって行ったと…。
(まあね、お兄さんが絶世の美男というんだから、
これはもう妹も美しかったんでしょうね…と思うです。)

この辺りからか…、
山三郎は、森家の重臣:井戸宇右衛門と仲が悪くなって。
井戸はなにしろ森長可から仕えている老練な家臣で、
そこへ行くと…山三郎はホントに新参者。
やはり…権力闘争勃発です。

そんな中、
小早川秀秋が早世し、信濃から美作に転封になった森忠政。
鶴山の地名を「津山」に改め、ここに津山城を築く事にしたのですが。
このお城造りが…もう…大変な事に。

忠政としてはこの頃はもう、
井戸宇右衛門が相当嫌になっていたらしく、
名古屋山三郎に命じてこれを誅殺する事に。
しかし、
この争いで井戸も山三郎も両者相打ち、斬られて死んでしまう。
山三郎の享年は28歳(32とも)。

これに怒った忠政、家臣に井戸の残った兄弟皆殺しを命じるが、
余りの理不尽な展開に義憤を感じた家老:林為忠一門が、
森家を見限り出奔。

そしてそして、かねてより、
こちらも仲の悪かった各務元峯(各務元政:嫡男)と小沢彦八が、
築城中の石切り場で些細な事から喧嘩に。
彦八と、仲裁に入った森家のもう一人の家老:細野佐兵衛が、
ここで殺されてしまう。

とにかく、
森家の重臣達の刃傷沙汰なので
(この時、各務元政は既に亡く、元峯が後を継いでいた)、
もう家中は内乱寸前まで緊張が高まったものの、
事態を収拾させるべく、当の各務元峯も切腹。
当時、参勤交代で江戸に居た忠政は…またこれにも激怒。
佐野家、各務家、小沢家の三家老の家禄を没収してしまう。

こんな困難(というか甚だしい人災)を越えて…津山城は完成を見る。
時に1616年、築城開始から13年の歳月が経っていた。
この後、抑えを失った家臣団に重鎮が必要と、
忠政は、長可の時代に仲違いしていた叔父:森可政を、
津山藩へ執政職として招聘できるように幕府に要請。
(森可政は徳川の旗本となっていたので)
森可政とその息子:可春をも得る事叶い、以降、
津山藩:森家はやっと…安定したそうな。

……いやもう…、
現代でコレ読んでも、
いったいどうなる事かと思う一連の事件でした…トホホ。
それにしても…なにかにつけて、流血の絶えない森家で…ございます…。


そんな波乱の森忠政。

その死がまた…謎めいておりまして。
泰平の世の中になって久しい1634年、
京都の茶道具商人:大文字屋宗味宅で夕食に出た桃を食べた後、
帰り道で嘔吐をおぼえ…翌朝に亡くなった…とされています。

「桃に当たる」とは…どういう事か???と思うのですが、
今でも、
森宗家では桃を遠ざけておられるという話もあり、
なにか運命の不可解不思議を感じます。


だけど…だけどね。
森忠政のお墓は何処かというと。
例の大徳寺:三玄院にあるという事で。
で…ここには三成も眠っている…らしいんですよ。
う〜んんん。
豪の者、忠政さんにとっては、
「ンな事、どうって事ないよね」な感じですけど、
(津山城にある忠政さんの銅像も迫力あるもんねv)
それに比して、
三成の方は…………嫌だろうなあ…w。


さて。
ながらく続けて参りました「血風!森一族」の段、
ひとまず…これにて!!!。
posted by 夏草 at 11:36| Comment(0) | 家族の肖像 〜森家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする