2012年05月25日

双葉より芳し

柴田外記について、またまた補足でございます!。

この前、
「中将殿=外記の母」とやっと分ったんですが、
「よく見れば…それはそうだ!!」な事が、
実はちゃんと政宗公から中将殿への書状に書いてあって。
その事に、今更ながらやっと気付いた自分です…(トホホ。

これについては、
佐藤憲一さんの『伊達政宗と手紙』
(大崎八幡宮『仙台・江戸叢書12』2009年出版)と、
これにだいぶ加筆された
『素顔の伊達政宗 筆まめ戦国大名の生き様』(洋泉社 2012年2月出版)の、
両方にもちゃんと出てたのに…気付けなかった…(ばたり。



当時、政宗公は大変能筆として知られていたそうで、
中将殿もまた、政宗公に「何か書いて下さい」とお願いしたらしい。

それに応えての、政宗公の書状。


『御所望にまかせ 愚筆染まひらせ候
  
   りんをいわい候て
   いにしへのうた

ふた葉よりたのもしきかな春日山 こだかき松のたねとおもへば
                    (政宗花押)

    中将どのへ まいる      』



う〜ん。
最初にね「りんをいわい候て」って…入ってる!!。
この「りん」ってさ!「於輪、輪丸」の事だよね。
輪丸って…外記の幼名っすよね!!。←↑以前コメント戴きまして


なんだそうじゃないか〜〜!!。
最初っから「りんへ」って事が書いてある書状じゃないすか!!w。
てゆ事はホント中将殿は輪丸母だよね。


でね。
その「りんをいわい候て」なんですけども。
「祝う」って…なんの時???って考えてみたんですけども。
戦国時代に誕生日を祝うって習慣は、確か無かったと思うんで、
武家の男の子のお祝いって言ったら…「元服」???。

外記は最初確か、
佐竹仲三郎or忠次郎と名乗ったらしいんで、
名前変えるのって元服の時ですよね、だからその時の事かな…。


「拾遺集」から選ばれているというこの和歌の内容も、

(この子はまだ)双葉だけど、
末は春日山の梢高い松になると思うと…双葉でもとても頼もしいな

……って感じの歌ですよね???(訳合ってる???www)。

まだ小さい輪丸の行く末を楽しみにしている歌だとすれば、
やっぱり…政宗公からの元服への祝意じゃないかなあ…。


だけどね。
元服時のお祝いなら「りんへ」じゃなくて、
「仲三郎」か「忠次郎」宛になるんじゃないか…とか…、
そんな風にも考えちゃって、
いろいろまだハッキリしないんですけども、自分的には。

どうなんすかね…。
そして、烏帽子親とか鎧親とか…誰だったんですかねw。

そしてこの後、19歳くらいで柴田家を継ぐ事になる外記。
大坂で伊達軍の虜囚となってから、そこまでの間で(おそらく12〜15歳の間?)、
元服…という運びになる訳ですよね…。

(余談:佐藤憲一さんの本では、
この和歌の作者を「清原元輔」としてあるんですが…、
あんまり和歌に詳しく無い自分が、それもネット上で調べてみた結果で恐縮ですが、
作者は「大中臣能宣」としているサイトが複数ありまして。
今度ちゃんと書籍で確認してみますv。)
posted by 夏草 at 00:57| Comment(6) | 歴史の周辺、その後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月25日

中将殿っお待ちなせえw

今日は昔のブログの後追い&訂正記事です!!。

以前、
「元親アニキと政宗様と幸村の子孫!」って話をここで書いて、
いろいろコメントも戴いて盛り上がりましたが↓。

『「竜の兄さん、俺の孫を頼むぜ!」 byアニキ 〜2〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/203667713.html


アニキの血筋の女性とその息子が、大坂城落城の時に伊達家に捕えられ、
女性は政宗公の側室となり、
男児は後に仙台藩重臣:柴田家に入り、柴田外記朝意と名乗る事になって、
寛文事件(伊達騒動)で落命した…という話だったんですけども。

柴田外記の母が…中将殿って名前だったという所までは分ったんですが、
(名前は「中将」だったと柴田家記録(『柴田家歴代略記』)にはあるらしい)
この女性が、当時、
政宗公の侍女として名の挙っている「中将殿」と同一人物なのかどうか…、
そこが自分的に分らなかったんですよね。


しかしこの度、判明しました!!!。

やっぱ同一人物だったようです!!!。


中将殿という侍女が居た、という話は、
佐藤憲一さんの『伊達政宗と手紙』
(大崎八幡宮『仙台・江戸叢書12』2009年出版)に出てるのですが、
これにだいぶ加筆された
『素顔の伊達政宗 筆まめ戦国大名の生き様』(洋泉社)という本が、
2012年の2月に出まして。

この本の…同じ内容の項にこうありました。

「中将殿は長宗我部元親の娘。
頭が良く教養があり弁も立つので、政宗に信頼され晩年まで近侍し寵遇された。

息子は忠二郎といい、政宗の小姓となった後、
伊達家重臣柴田家を嗣いで、
登米郡米谷(とめぐんまいや/現宮城県登米市)領主となった、
柴田外記朝意(1607〜71)である。外記は奉行も務めた。」

おおーーーーー。
これでまた一つ、疑問が解けた…。

そうか。
「側室」と「侍女」ってトコのびみょ〜な、大人な感じをw、
オイラが掴めて無かったんだ!!!。

オイラも…まだまだだな(ふ。


そして、
佐藤憲一さんは、
外記の父母について「佐竹蔵人&阿古姫」説を採ってますね。

それから…名前について二三、異説が判明。

■佐竹蔵人:「佐竹蔵人義直」→「佐竹蔵人親義(ちかよし)(或は親栄)」
■柴田外記の幼名:忠次郎→忠二郎

名前は時代によって同一人物でも変化したり、
(官途名やら受領名がついたり、養子に入って姓が変わったり、単に改名したり)、
表記も…当時は今程厳密じゃなくて、結構バラバラだったりするし、
(山本勘助も山本菅助だったりしてるし)
時には誤記もそのままだったりするんだろうし、
きっとこれらがどこかしらに使われてたんじゃないか…と思います。

■柴田外記朝意(しばたげきとももと)

これはねえ…「ともおき」と読むのか…「とももと」なのか。
難しいですね、人名の読みっていうのも…。

とゆ事で。
元記事も補足訂正してみました。

人の名前とか血筋とか関係って…なかなか大変だけど興味深いですねv

posted by 夏草 at 20:43| Comment(2) | 歴史の周辺、その後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月22日

なに!!お主も、か!w

きょうはまた、
既に書いたブログの後追い記事シリーズでござります。


最近、
森家の事書いてたら、面白い事がわかりまして。

それは。

前にもちょと言及した毛利元就公のルーツ、
…遡れば「現在の神奈川県厚木市」だという事なんですが、
なんと…森家も同じ近辺がルーツらしいんです!!。

相模国森庄(さがみのくにもりのしょう)。

これが、
毛利家と森家のルーツ!!。

どういう事かって言うと…、
これは「清和天皇からの流れ」に連なる話になりまして。

そうなんですよね…戦国期の武将達は自分のルーツを、
確かな貴種と誇りたいから、
「清和源氏」って言いたがってる感じなんですけど(笑、
森さん家と毛利さん家は…そういう伝承自体は元々あったらしい。


まずは森家。
アノ!源頼朝、
そのひいひいおじいさんに、
源義家(八幡太郎)という人が居ますよね。
この人の六男(或は七男)に源義隆という人が居て。
(源氏ってルーツ辿るといろいろあるみたいなんですけど、
この義隆って人は、清和源氏から河内源氏って流れらしいです)
この人が相模国森庄を領地としていて、
森冠者とか名乗っていたらしい…と。

名前はまんま「森」ですね。
全国の森さんのルーツは…どうなんでしょう??。
こうなると気になりますねv。

因に「冠者(かじゃ)」って何かっていうと、
元々は中国の言葉で「成人男子」だったものが、
源平の頃の日本で「成人したばかりの若者」って、
イメージになったらしい。
そういえば、狂言で出て来る「太郎冠者」って…若者ですか。

そして…ずーっとずーっと時を下って、
森兄弟の父:森可成の頃に、
やっと森家の詳しい歴史が始まるらしいです。
この空白期に森氏は相模国から美濃国に来て、
ここの土岐氏に仕えるようになったと。
因に土岐氏って…明智光秀の一族ですよね。

いやあ…ホントにみんないろんな所で繋がってますね。



で、毛利家の方は。
こちらは鎌倉幕府が出来た頃の話になるんですが。
(森冠者の没年が、鎌倉幕府が出来るか出来ないかの辺りなので、
森家の方が相模国人としての発祥はやや早いですね)

源頼朝の側近として、
京都から貴族(それほど高い位では無かったが学者系)の、
大江広元を招聘して色々政治体制を整えた…という事で。
(大江広元って…メジャーな名前がここで!w)。

その広元の四男に季光(すえみつ)という人が居て、
彼が父の所領だった相模国森庄を相続し、
三代将軍源実朝に仕え、
「毛利季光」=「毛利」を名乗り始めたと。

つまり。
森庄→毛利庄と、こういう流れらしいんです。

つまり、季光さんはお父さんまでは貴族だったんだけど、
自分はこうして「武士」として生きる…と決心したらしい。
で、この後、
承久の乱やら親族を巻き込んだ政争とかいろいろあって、
毛利氏は安芸吉田へ行き、そこに根付く。
これが…中国地方の大大名:毛利氏になって行くそうな。


…神奈川県厚木市…今も毛利台って地名が残ってます。
(近所に「森の里」って住宅地もあるんですけど、
これは宅地用につけられた新しい名前かもしれないんで、
森庄からの由緒があるかどうか不明です。
ただし…「森」という言葉は生かされてる可能性は大きいですね。)

実は自分、
この辺りに一時住んだ事がありまして!!w。
いやもう今でも山並の近い「森の国」です。
今もこんなだから…、
その昔はどんだけ山で森だったのか…と思うと、
森家、毛利家を遠〜〜〜〜く想像してボーッとなります。

あ、そういえば。
この辺の三嶋神社という所に、
「毛利家発祥の地」という碑が建ってるそうです。
というか逆で、
この神社がある所が、毛利季光の館の跡だそうで。
(自分、住んでる時にはこの事知らなくて、
三嶋神社に行った事無かったんですよ…。
ああー行ってみれば良かったよ…w。)

でも…歴史はホント「繋がってる」んですね。
毛利といって、
小早川家、吉川家も元々は「東国武士」だったそうなんで、
結局ね、日本全国にはこんな風に、
ホントに源平時代からのルーツな人々が散らばってるという感じ。

だから…敵味方って言っても、
案外ひいひいひいじいちゃん同士は仲良しだったり…するかも♪。
(逆もまた真なりだと…コワいけどねw)


☆関連項目☆

『毛利は昔「もり」と読んだらしい』
http://ikiikien.seesaa.net/article/127386713.html
タグ:毛利家 森家
posted by 夏草 at 13:30| Comment(0) | 歴史の周辺、その後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする