2010年09月16日

乱世羽州に立つ!3

今日の話題は…とうとう、
東北における「関ヶ原」戦とよく言われている、
最上の伯父上vs.直江兼続の「慶長出羽合戦/長谷堂城戦」です。

直江軍は二万とも言われる大軍に対し、
最上軍は数千規模…と兵力にはかなりの差があったらしい。
(現代の歴史研究でも、実は、
ここの実数がどうもハッキリしないらしいのです。
ただ、いろんな本から受ける印象だと、
直江軍の方がかなりの兵力で迫って来た事はあるようで。)

どうしてこうだったのか…という話もなかなか興味深いです。


まずは戦前夜。

太閤秀吉が没して、
慶長5(1600)年に会津攻め(=上杉攻め)に向かっていた徳川家康。
その途上で石田三成の挙兵を知り、反転して戦いに挑む訳ですが。
(真田親子も、同じ頃三成からの書状を貰って、犬伏で協議してますよね)

元々の会津攻めの計画は、
家康が北上し、最上義光公らの隊を南下させて、
会津の上杉景勝を挟み撃ちにする…という事だったのですが。
(上杉方はなにしろ豊臣側の重鎮だし、
直江兼続の例の「直江状(真偽の程は不確かながら)」の件あり、
神指城(こうざしじょう)という広大な城郭建築計画があって、
家康はこれを捨て置けぬという事態)

この時、
最上義光公の山形には、家康の命を受けて、
南部利直(岩手県)、秋田実季(秋田県秋田市)、戸沢政盛(秋田県角館)、
本堂氏、六郷氏、滝沢氏など…東北の諸将が集結して、
一緒に上杉と戦う予定だったのだけど、
家康が転進した事を受けて、皆領地へ帰ってしまったらしい。

上杉も自分達への攻撃を予想して武装しているので、
ここで最上がぽつんと残される形になるのは…、
伯父上的にもマズかったんじゃないかと思うんですが、
近隣というのはあんまり仲が良く無いのは通例だし、
家康vs.三成(豊臣)という事になれば、
もう全国規模の影響必至とは、誰もが思う訳だから…、
皆自国領を固めようと思ったのでは。

そんな時。
最上の隣、政宗公はじゃあどうしたかっていうと。
「(あんまり仲良く無かった)上杉と(ここに来て)暫定的な和睦」ですよ!(笑。
……。
………。
……やりますね、流石は政宗公(わははは。

これには…最上の伯父上も、
「アイツめぇ!またやりおって!。」と思った(かも)しれないし、
だいたい家康にしても「百万石のお墨付き」をちらつかせる事で、
やっと「伊達政宗を東軍に」留め置けた訳だから、
(実際、政宗公としては「東軍西軍どっちが勝っても良かった」
という説を展開している人も居るくらいで。)
ホントに…相変わらず、油断もスキもあったもんじゃない甥っ子だw。

で…こうなってしまうと、
義光公も上杉方に人質を送って、和平を取り結んだりしたのですが。
しかし。
そこは…こちらもさる者、最上義光公!!。
その一方で着々と上杉攻めを工作していた事が上杉方に発覚。
これで怒った上杉勢と長谷堂城戦へなだれ込む…という事で。

こういうのね「卑怯」と言う人も居るんですけど、
戦国時代は虚々実々ですよ!!。
みんなね、
生き残るため、所領を確保する(皆を喰わせる)ため、ものっそ真剣です。
だから自分は真田のおとう:昌幸さんの生き方も嫌いじゃないですv。

余談ですが、
いざ長谷堂城戦が始まると、
政宗公は血縁の要請に応え、最上の伯父上に援軍を出すんですよね。
でも、この時に至っても最上領内に入った伊達勢
(こちらも政宗公伯父さま、留守政景部隊;約3000)は、
もじもじしてなかなか進軍しない。
これはこの時小十郎が、
「上杉と最上と両者が弱った所を一気に叩きましょう」と、
提案したからだとかしないからだとか…。 ←小十郎は本当にシビア…

そういうもんです、戦国の世は。
厳しいのです!生き残る事は!。
(しかし、
どんなに好きでも、自分、戦国時代に生まれなくて良かった…。


……話を戻しますれば(笑。
長谷堂城までの支城は、
上杉から見て比較的易く落とせたらしいのですが、
長谷堂城戦には凄い武将が沢山関わっておりまして。
まず、
長谷堂城を守るは、最上家の猛将:志村光安。
そして…鮭延秀綱。
↑この人ですwゲーム3でへたれ絵師をよく助けてくれる「仲間」v
両者を中心に上杉の猛攻をよく防ぎ、敵将:上泉泰綱を討ち取るなど大健闘。
大変な激戦となった模様。
そして関ヶ原で東軍が圧勝したという報が入り、
ついに…濃霧立ちこめる中、直江軍の撤退とあいなります。
(山形は霧が出易いんだそうですね。
だから山形城の別名は「霞ヶ城(霞城)」だと)
最上義光公自身も大奮戦し、直江軍を追撃したそうなんですが、
この時に例の兜に被弾したらしいです。

一方の直江軍にはアノ前田慶次も居て、
退く自軍と直江を励まし、立て直して奮戦した…とも伝えられていますね。
戦争で一番困難なのは撤退戦という事ですが、
(たいてい殿(しんがり)は討ち死にですよ…)
その直江の撤退戦はホントに見事だったらしく(兼継も死んで無いし)、
敵大将の義光公からも直江兼続は褒められていますね。


というような流れで…、
山形における慶長出羽合戦は幕を閉じます。

関ヶ原も天下分け目だったですが、
この羽州での一戦も歴史の転換点だった事は間違い無く。
最上義光公、この大きな戦を乗り切り、
57万石の大大名として羽州に立つ!のでございます。
posted by 夏草 at 10:59| Comment(0) | 歴史の周辺/最上家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

乱世羽州に立つ!2

間があきましたが、
今日は最上義光公を訪ねる山形の旅、第二弾でござりまする。

今回は折角行ったにも関わらず、
時間があんまり無かったので、
山形城趾と最上義光歴史館だけしか回れず、
近くにある長谷堂城合戦跡には行けなかったのですが…。

しかし。
山形城趾(霞ヶ城趾)の復元東大手門の櫓内部を見る事ができたのですが、
そこに…長谷堂城合戦関連の展示がありまして。
これが興味深かったです。

この写真、
これが…現代の「長谷堂城跡」だそうです!!↓。
(写真を撮っていいですかと訊いたら、
係の方が快諾して下さって…ありがとうございます。)


hasedoujyou.jpg



この写真に添えられた記事によると。

<長谷堂城とは、山形城の支城で、山形盆地の南西部にある山城。
 この城が最初に記録に現れるのは、
 「天正11(1514)年、
 山形城主:最上義定(義光公の祖父)が、
 伊達稙宗(たねむね=政宗公の曾祖父)と戦い、
 伊達軍に占領され、後に返還された」というもの。

 しかし、
 この長谷堂城が歴史に名を残すのは、慶長5(1600)年の、
 出羽における「関ヶ原の戦い」と呼ばれる出羽合戦においでである。
 西軍の上杉景勝は、重臣:直江兼続を大将とする約二万の軍勢で、
 東軍についた最上義光を攻めるため、最上領土に侵入した。
 大軍を率いる直江は次々と最上の城を落とすと、
 長谷堂城の北1km程にある菅沢山(すげさわやま)に本陣を張った。
 長谷堂城主:志村伊豆守光安(しむらいずのかみみつやす)は、
 直江軍相手に一歩も引かず、
 また、伊達政宗からの援軍などもあり、
 更に関ヶ原での徳川方勝利の報がもたらされ、直江兼続は撤退した。
 そして、
 元和8(1622)年、最上氏が改易されると同時、
 長谷堂城は廃城となる。>


なんだか現在も、上杉景勝方というか直江兼続方からは
「上杉、直江は伊達政宗と対立があり」という言われ方があるんですけども、
それはそうなんだけど…寧ろね、政宗公じゃなくて、
「最上義光公との対立」という方がより強いんじゃないか…と、
自分は思うんですが…。

何故なら、最上家と上杉家は、
関ヶ原の前から「宿命の対決」を余儀なくされる立場にあったと。

当時、山形城(霞ヶ城)を拠点としていた最上義光公は、
その南の置賜地方(米沢がある所)が伊達氏のものだったため、
(伊達輝宗正室:義姫は義光公の妹だし)、
易々と南下できないと踏んだようで、
その代わりというのか…北の庄内地方を攻める事になったと。

一度はこの地域を掌握した義光公だったが、
元々この地の支配者で、一度敗走した武藤氏が、
上杉重臣:本庄氏と結んで再び攻撃をしかけ、
結果庄内地方は奪還されてしまう。

その後、太閤秀吉の「奥州仕置」があって、
庄内地方は上杉領として安堵され、
その上、
蒲生氏郷の病死と息子秀行の宇都宮移封に伴い、
その領土であった会津・置賜・信夫・伊達・安達をも、
上杉景勝が手にしたため、
これで最上家は上杉家に西と南から囲まれてしまう。
山形内の各地域と長谷堂城趾の位置関係は…こんな感じ↓。


yamagatamap02.jpg

対する上杉家にとっても、最上家は元々敵対である上、
自家領地である庄内と会津等を”地理的に分断する”勢力となるため、
ますます非常に気がかりな存在となった。

……という流れなんで…、
それはもう「長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)」での、
両者激突は避けられない…という事で。

このシリーズ、次は…、
長谷堂城合戦における各武将の戦いぶりなんかについて、
イロイロヨロヨロつぶやいてみたいと思いますv。
posted by 夏草 at 09:57| Comment(0) | 歴史の周辺/最上家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月07日

乱世羽州に立つ!1

この土日、
行って参りました!最上義光公の山形を訪ねる旅。

伊達政宗公は62万石でしたが、
義光公も最大57万石の羽州の大大名なんですよね。
幼名:白寿丸。
元服してからは源五郎義光(げんごろうよしあき)。
通常はみんなから「げんごろう」って呼ばれたそうで(なんか可愛いv。
最上家の祖は、
清和源氏〜足利の流れに連なる斯波兼頼に遡れるそうで、名門ですね。


BASARAゲーム3では、
政宗様との「伯父甥の関係」は語られませんでしたが、
御存知、
伊達政宗公のお母さん:義姫のお兄さんが義光公で。
そういえば、ゲーム3の「資料編」には、
義光公に絡んだ詳しいコラムが随分ありましたね!。
(しかし因に…政宗公の「母の兄」だから、
厳密に言うと「叔父」じゃなくて「伯父」です。)


で。
今回の旅……まずは、
今は霞城(かじょう)公園となっている霞ヶ城趾から。
こちらは2008年に復元されたという東大手門。


yamagatajo01.jpg


そしてそして。
こちらが…最上義光公と言えば有名な騎馬像。
東大手門を入ると…いらっしゃいました!!。
これ…カコイイんですよね。
初めて写真見た時から、一度ホンモノを見てみたかった…。
長谷堂城戦に出陣する様、だそうです。
御覧下さい!!有名なあの「鉄の指揮棒」をお持ちです!。
でも鎧兜は意識的に、
あの有名な御本人の当世具足じゃなくしてあるそうな。
(その方が装飾的だからかな…)


mogamiyosiaki01.jpg



その御本人の兜ですが。
ホントに特徴的だし、
BASARA義光公もちゃんとこれ冠ってましたよね。
織田信長からの拝領と言われているそうで。

これ実物は(実物が残ってる)、
前立ての部分が折れていたらしいんですよ、ごく最近まで。
そう、あの激しい長谷堂城戦の時の破損がそのままになっていたそうな。
その状況がとても分るページにリンクを貼ってみます。
このページ…その名も「最上義光歴史館」のHPなので、
<トップはこちら→http://mogamiyoshiaki.jp/?p=top
義光公について知るのは、ここに飛んでみるのが一番かと。
因に自分も実際ここに行ってみました。
なんと!入館料が無料です!!…スバラシイ!。

http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=92506

上の方の画像がとても分り易いんですが、
前頭部の筋が一本なくなっていて、兜に傷がついてますよね。
これがその戦いの傷跡だという事で。
今は下の図のように復元されて(2008年に修復したそうで)、
弾傷が残ったままだけど、利剣と鍬形は綺麗に揃っていました。


そして指揮棒。
これも…BASARA義光公がちゃんと手にしてて。
ちょと感激。
でもピシピシ攻撃されて…痛かった(笑。
(それにしても…あの玄米茶はどこから来たんだろう???w)

http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=46386

因にこの鉄の指揮棒って…重さ1750gもあるそうな。
義光公は記録には180cmくらいあった人とされてるんで、
立派な体躯でこの重く長い指揮棒を持って戦ったんですね。
このページの記事と重複しますが、表面には、
「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光
(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」
と…記されているそうで、
つまりは、剃髪してない僧だったという事なんですね。

戦国時代って結構多いですよね、僧籍の人って。
武田信玄公しかり上杉謙信公しかり…。
精神的支柱としての信心か、
自己の正当性を主張するための信仰か…。


最上の伯父上、
次回はその最大の戦い:長谷堂城戦について迫ってみたいと。
タグ:最上義光
posted by 夏草 at 12:07| Comment(0) | 歴史の周辺/最上家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする