2011年04月09日

政宗パパからお手紙ついた♪

<被災地復興応援の戦国東北シリーズ4>

大崎八幡宮主催の講座をまとめた「仙台江戸学叢書」の中から、引き続き、
佐藤憲一さんの『伊達政宗の手紙/仙台江戸叢書12』より。


政宗公の筆まめな所は、
実は両親ゆずりだったのでは…と佐藤さんは考えているみたいです。

というのも、
父:輝宗公は戦国武将としては珍しい事らしいのですが、
自筆の日記を残していて、
母:義姫も自筆の書状が多く現存していると。

つまり…そんな両親を見て育ってるだけに、
政宗公は「書く事」に非常に積極的、それが自然で、
そんな事もあってか、
「手紙は自分で書く(右筆を極力使わない)」というのが、
政宗公の信条だったのだろう、と。


それを裏付けるような逸話もありましてv。

政宗公67歳の頃、
十男で13歳の伊達兵部宗勝に、こんな手紙を出している。


『雨故、今日の能伸び候て、残り多く候。
 さりながら能半ばにて降り出し候はば、悪しく候はんに、
 夜中より降り候て仕合せにて候。
 定めて明日は、晴れ候はんと存じ候。恐々謹言。

  この返事、いかやうにも自筆にて給わるべく候。
  てあがり申さず候とも、節々自筆にて書状もかき候ことは、よく候。
  とかく、かき候はねば、いよいよてあがらぬ物にて候。かしく。 
   
   九ノ十四日         政宗(花押)
                    より

  兵部大輔殿          政宗       』


佐藤さんの訳の意訳w)

雨のため、今日予定していた能が延期になって残念だ。
しかし、演能の最中に降り出されては大変だったが、
夜中からの雨になって却って良かった。
きっと明日は晴れると思うよ。恐々謹言。

 この返事、是非とも自分で書いてよこしなさい。
 上手でなくても、折々に自分で手紙を書くのは良い事だ。
 (下手だからといって)書かないでいると、
 ますます上手くならないものだからね。かしく。



おおー。
お父さんの目線ですよねえええ。
13歳の息子…それも十番目の息子ですけど、
もう目配りつか心入れがあったかいですね。


この子は後々、
かの伊達騒動の主役となってしまう子ですけども、
お父さんが存命の時は、こんな風に薫陶を受けてたんですねえ。

父としての政宗公の胸中には、
輝宗公の面影、姿が去来してたんでしょうか…。
政宗公はお父さんには大事にされたと思うんで、
それは…こんな感じだったのかな…。

政宗公は娘、息子にも勿論自筆のお手紙が多かったそうです。
大名の生活って…ホントに私人としての時間なんか取れないくらい、
超忙しいものなのですが、
その中でも沢山自筆の手紙を出していたなんて…、
政宗公はいいパパだったんですねv。
posted by 夏草 at 20:16| Comment(0) | 戦国お手紙事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月08日

「今度また、一緒に飲もうぜ! by政宗」〜2〜

<被災地復興応援の戦国東北シリーズ3>

藤堂高虎とのお話の続きでございまする。

寛永5(1628)年、
政宗公62歳の時に、高虎さん(73歳)へ送ったお手紙がありまして。

当時、二人は江戸に居たらしい。
関ヶ原からも…そして大阪の役からも、もううかなり経った頃で、
戦国の法螺貝や鉄砲の音、軍馬のいななきは既に遠いものに…。

江戸の大名達は茶の湯やら能の会やら鷹狩りやら酒宴やら、
いろいろな饗応を通して友誼を深めあったり情報交換したりと、
社交の世界が言わば、主戦場となっていた。

そんな中。
筆まめで社交的な政宗公は、
複数の幕閣をはじめ…様々な交友関係を誇っていた訳ですが、
ことお酒の友達というと、
あの柳生宗矩さんと、この藤堂高虎さんが目立ってますよね。


これは↓そんな仲の高虎さん宛。


『その後は御ゆかしく候
 よって、この両樽、近日南都(=奈良)より参り候
 いずれに新酒にて候
 ひとつきこしめして候はば、かたじけなくべく候
 祝儀に鳥一つ添え申し候
 恐惶かしく

 七月廿八(=28)日  政宗 (花押)
                松陸奥守
 藤泉州様 人々御中            政宗 

 
 尚々、酒は二色にて候
 よって、下屋敷に池を仕り候
 さむく成り申さず候前に、一夕申し入れたく候 
 いつ頃御隙(おひま)にて候はんや
 かしく 』



佐藤憲一さんの訳から)
『その後、御無沙汰しております。お変わりないですか?。
 この両樽、近日南都より届いたものです。
 いずれも新酒です。
 ひとつ御賞味いただければ幸いです。
 祝儀に鳥一羽を差し添えます(合わせて御賞味下さい)。
 恐惶かしく。
  (略)
 尚、酒は二種類です。
 ところで下屋敷に池を作りました。
 さむくならない前に一夕、一席もうけたいと思います。
 何時頃御都合がよろしいか。かしく。 』


うーん、仲良しっぽですねえw。
殿様、
お酒も新酒で…しかも二種類とか、
自分が鷹狩りで取ったらしい鳥の獲物つけてるとか、
↑これがホントのジビエだよv
庭の池作ったから見てくれとか、
寒くなる前に一席やろうとか、
相変わらずというかなんというか、
いろいろと細やかに心配りしてはりますねv。

政宗公からはこの他にも、高虎宛に、
「今度また伺うので、昔語りでもしましょう」という書状も残っているとか。

だけど…ちょと心配だよね、なにしろ殿様、お酒弱いからなあ…w。
「高虎さんのトコで大虎」なんて…くはっっっっ!!、
オヤヂなダジャレもサマにならねえw。

高虎さんからも、政宗公宛に、筆跡も力強いお手紙が来てたみたいで、
仙台市博物館に所蔵されてるらしいです…。

まあもうね、
いろんな所で「濃い友情」を育んでる感のある殿様でございますv。



ところで。
この「下屋敷」なんですけど…「下屋敷」があるのだから、
当然「上屋敷」もある訳で。

上屋敷は主に、大名と家族、そして家臣が居住する、
藩の政治機構の中枢だったそうで、
登城する便宜上、江戸城に近い所に置かれたと。
主が領地に帰国した際には、江戸留守居役が置かれた。

一方、下屋敷というのはそれに比べて、
大名の別邸という感じで…大きな庭園があるような、寛ぎの空間。
その他、領地から送られるお米の貯蔵倉が建っていたり、
菜園が作られていたりした所もあったらしい…。
(菜園!!!もしかして…片倉菜園w)←思いっきり違いますから!!


で。
伊達家の下屋敷って…今の芝増上寺の辺りにあったそうで。

ぞ、増上寺って…!!!。
徳川家にとっては大変重要なお寺さんですよね。
関ヶ原の10年前の1590年には、徳川家の菩提寺になってます。
そんな大変な所に…下屋敷が…と言って驚いてはイケナイ。
どうも…同じ増上寺の周辺に、家康からこじゅさんに向けて、
「江戸屋敷をやろう」という提案があったという逸話がございまして。
ええーーーー!!!御主君政宗様と別に、ですかあああ???。
いやいや…そんな事を考える前に、こじゅさんはキッチリ断ってるらしいです…。

そらもうね、
秀吉に口説かれようと家康にちょっかい出されようと?、
小十郎は漢でございます!!政宗様以外の主君を持ちとうはございませぬ!!。
……ですよねえ……ああもうね、ごちそうさまです…。←違うからw

☆訂正追記☆
2015年2月、あらためて調べたら…増上寺というより麻布周辺にあったらしいです。
仙台市の公式ページ↓に詳しいので御参照のほど。



因に、
それでは伊達家の上屋敷はというと…、
現在の日テレの辺り(浜離宮の近所)という事で、
解説石碑も日テレ広場にありまする(約25,819坪もあったらしい!)。
(でも、政宗公の時代の上屋敷は汐留より少し西北、
日比谷公園の辺りだったという話も…)

因に、
仙台市の公式ページもございました…↓。
(京都の海寳寺や、あきる野市の大悲願寺の記述もありますv)

http://www.city.sendai.jp/citysales/1205691_2442.html

因に、このエリアには、
仙台藩伊達家屋敷の他、
龍野藩脇坂家屋敷(賤ヶ岳の七本槍:脇坂安治の子孫、
会津藩保科(会津松平)家(名君の誉れ高い初代藩主:保科正之は、
二代将軍:秀忠の妾腹、家光の弟)の屋敷もあったそうな。

いやあここら辺…、
みんな苦労人の藩主様だ…と、ラインナップを見て思ったり(ははは。
posted by 夏草 at 17:38| Comment(0) | 戦国お手紙事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月07日

「今度また、一緒に飲もうぜ! by政宗」〜1〜

<被災地復興応援の戦国東北シリーズ2>

大崎八幡宮主催の講座をまとめた「仙台江戸学叢書」から。

ちょっと間が開きましたが、引き続き、
洋泉社から復刊された『伊達政宗の手紙』を書いた、
佐藤憲一さんの『伊達政宗の手紙/仙台江戸叢書12』より。


政宗公はお酒が大好きだった訳ですが。
(でも弱かったけどv)、
飲み友達というか…親しいお酒友達の一人が、
アノ!藤堂高虎だったようです。


藤堂高虎(とうどうたかとら)。

御存知、城作りの名人ですね。
しかし…彼の名を世に知らしめているのは、その事よりも…、
「生涯何度も主君を変えた」という話の方ですよね。

高虎は、
近江国犬上郡藤堂村の土豪:藤堂虎高の次男に生まれたと。
(え…?お父さんの名前は「虎高」!!w。
で、息子は「高虎」…お父さんと逆だけど…、
何か思いが込められていたんでしょうか。)


さて。
高虎さんの主君遍歴をざっと記してみますれば。


浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉
→徳川家康→秀忠→家光 ……と、なるようで。


最初はその出自により、
近江国主:浅井長政の家臣として、姉川の戦いで武功をあげたらしい。
しかし小谷城で浅井氏が負けると…、
浅井家の旧臣:阿閉貞征(あつじさだゆき)、
磯野員晶(いそのかずまさ)と仕え、
浅井氏の滅亡後、近江を出て、
浅井を滅ぼした織田信長の甥:信澄(のぶずみ)に仕官。

その後、
羽柴秀吉の優秀な弟:羽柴秀長の元で、
賤ヶ岳の合戦(対:柴田勝家)で抜群の働きをしたらしい。
秀長が病死すると秀長養子:秀保を支えた。
文禄の役にも参戦するも、秀保の早世に際して、高野山へ出家。

そして、
その才覚を惜しんだ秀吉に呼び戻され、直臣となり、
伊予宇和島を拝領、
その後慶長の役にも水軍を率いて参陣し、武功をあげたそうな。

秀吉の死後は、
いち早く徳川家康に接近、家康の上杉征伐に同道、
関ヶ原では大谷吉継の軍と壮絶な戦いを繰り広げたと。

この間更に、
雑賀衆の頭領:鈴木重意を策を弄して自刃させたり、
関ヶ原では西軍の朽木元綱、水軍の脇坂安治などの調略を成功させ、
東軍に寝返らせた…とされてます。


ずっと長らく、彼は「主君を一杯変えた変節の人物」と、
誹りを受けて来ましたが…そんな事はありませぬ!!!。
こゆ考え方は江戸期以来のもの…すなわち徳川の世には都合の良い思想で。

戦国時代の価値観は「七度主君を変えてこそ一人前の漢」って事で、
己の実力一本で乱世を渡って来た高虎さん、
自分的には大ファンでございます(ははは。

あ…だってね。
政宗様だって紆余曲折の人生だったすよね。
しかも度重なる危地を胆力と能力で乗り切った訳で…、
高虎さんとは気があったかもしれませんね!!。

あれ…略歴だけで、あっという間に長くなってしまいました。
わははは…流石は藤堂高虎!!。

高虎さんと政宗公との友情の文については、次回☆☆☆。
posted by 夏草 at 20:18| Comment(0) | 戦国お手紙事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする