2010年04月22日

家族の肖像 〜真田家13〜

大阪冬の陣。

信繁は、
開戦前、大阪城籠城を主張する守旧派に対し、
城には籠らず外に出て、東軍への先制攻撃を主張したが、
大野治長等、秀頼側近にはあんまり信用されなかったりしたらしい。
それというのも…やはり「信之が徳川方に居る」事がネックになった。
大阪城の南方の弱点ををカバーするための、
アノ真田丸建設さえ反対を受けたが、
後藤基次等、浪人の軍略派の後押しでやっと作戦案が通った。
しかし、
「真田信繁、徳川方にいつ寝返るか。そのための出城よ。」と、
陰口をたたかれたりしたらしい…。

一方、
その信之は信之で、徳川勢の中では当然ビミョーな立ち場で。
で、
大坂の陣には「信之本人は病気のため」出陣しておらず、
代わりに息子二人が代理で出ている。
この辺も…本当に病気だったのかどうか、ちょと分からないのですが、
昌幸おとうの血筋だから、苦慮熟慮の末の策、だったかもしれません。

この時、信之の長男:信吉は15歳、次男:信政は14歳。
まだ少年だったにもかかわらず、二人の働きは優れていて、
豊臣方の木村重成が激賞したという逸話が。
そして。
二人の甥は六文銭の旗印を使っていたが、
信繁はそれを予想し気遣い、大坂の陣では六文銭を使わず、
赤一色の旗印にしていた…という説も。

この辺…兄弟の心の綾が…なんとなく透けて見える気が…しませんか。


さて。
話を信繁に戻しますれば。
冬の陣は信繁の真田丸における大勝はあったが、
他面は豊臣方が一様に不利な戦いを強いられていたため、
「力押しは無為」と、徳川と豊臣の利害が一致、講和へと進む事に。
そんな中、徳川方は、
上田合戦の時の信之ように、今度は信繁を引き入れるべく、
信繁へ「信濃一国で如何か?」と破格の待遇で誘うのだが。
が…信繁はこれを拒絶。
大阪城の堀も真田丸も壊され…時節は大阪夏の陣へ。

大阪夏の陣!。

ここで初めて、伊達政宗公の軍と真田信繁の軍が闘うんですよね。
道明寺口の一戦で。
御存知のように、この時、伊達軍先鋒は二代目小十郎重長。
小十郎に勇将後藤基次の軍が撃破され、基次本人も戦死。

道明寺口の話と言えば。
信繁が息子と娘を小十郎重長に託したのも、
「息子娘が可愛くて、死なせたくなかった」という気持ちも、
勿論あったと思うけど…、
これも…父のように「真田を残すための一か八か」だったんじゃないか…と。
託された息子は次男だし。

そして。
ついに…信繁の運命も決する時が…。

後藤基次、木村重成ら主だった味方武将が戦死する中、
体制を立て直し、家康本陣まで斬り込んだ信繁だったが、
多勢の前に押し返され、追い詰められ、
味方傷兵を介抱している所を討ち取られた。

享年48歳。


家康は最初、
大阪方についたのは「父(昌幸)か息子(信繁)か?」と訊いて、
信繁と知ると安堵したと言われていますが、
(昌幸の方を恐れ、高く評価していたため)、
自分を脅かした信繁に対して、最終的に、
「真田、日本一の兵(つわもの)、
古(いにしえ)よりの物語にもこれない由」と讃え、
人々の記憶にも鮮烈に刻まれる事に…。


信之、信繁兄弟について、
それぞれとても人間的で、良いなと絵師個人が思う所は、
「信繁は兄の苦境をちゃんと知ってても、
それでも自分の決意は曲げなかった」し、
「信之はそういう弟(と父)をスッパリ切り捨てる事はせず、
その気持ちを温存しながら、彼にとっては生きにくい世を生き抜いた」所。

つまりは…それぞれに「自分の気持ち、決心を最優先」した所です。
それでこそ真田!。

そうしないとね…自分に嘘をつく事になる。
やっぱり人は「自分で考え抜いて、自分の気持ちで決心した事」でないと、
それを貫く事は難しいと思える。
その上「自分を曲げて他者のために生きすぎる」と…、
自分と他者への恨みが蓄積されて行く…。
だから…そういう事で嘘を付き続ける人生ほど虚しいものは無い。

御本人達に聞いた訳では無いので(笑、
ここからは、単なる絵師のドリームなんだけど…w、
真田兄弟はそれぞれの生き方をちゃんと理解して、
認め合っていたんじゃないか、と。
寧ろ、そういう所を互いに信頼しあって、
逆説的に絆が深かったのではないか。

こういう事言うと…綺麗ごとに聞こえるかもしれないけど、
本当に深刻な危機に直面した時って、
却ってそんな風に腹を括れるものじゃないかな…と思う。

寧ろ、そうしなければ、とうてい生きていけない時がある。


そして。
信之のその後は…。
徳川秀忠は上田合戦〜関ヶ原遅参の恨みを忘れなかったか、
信之を、真田の上田から松代へ転封する。
息子に家督を譲ったものの、孫の代になって争いが起こり、
なかなかの大騒動に発展したが…隠居から信之が復活し!!…、
2歳の三代目藩主に代わって、実質上藩政を執って後…死去。
享年93歳。

信繁の分も生きた感じのする大往生…。

後半生は真田家の縁の下を支え続けた信之だったけど、
これもまた…しぶとい真田的生き方だったな!!と…。

これにて、
熱き魂!漲る真田家の肖像、
ひとまずの終了と……させて戴きまする☆。
posted by 夏草 at 10:35| Comment(0) | 家族の肖像 〜真田家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月21日

家族の肖像 〜真田家12〜

真田さん家のお話も…そろそろ終盤へさしかかります。

真田親子の九度山蟄居生活が始まった時、
信繁は33歳、昌幸は53歳。

特に監視らしい監視はつけられておらず、
(しかし、それとなくかなり見張られては居たらしいが)、
拘束されていない暮らしに見えたが、
一方で収入の無い真田親子、
生活は、九度山のある紀伊藩からの援助と、
上田の信之からの仕送りに頼っていた。

しかし、結果的に、大所帯の信繁達の生活は容易では無く、
(昌幸には家臣が16人ついて来たし、
信繁の方は確か…蟄居中に子供が7〜8人生まれてるし)
昌幸は信之に臨時の借金申し込んだり、信繁は酒を頼んだりしている。
御礼の書状にも
「手元に余裕が無く、余りお返しもできない」という一文があったのを、
読んだ記憶が…。

信之の方も、ハッキリ言って、
「時の権力者に歯向かった身内」の助命が叶っただけでも凄い訳だから、
それを…表立っていそいそと援助はできないし、
信之自身の上田藩も決して大身じゃないから…大変だったと思われ。

それから11年後、赦免叶わず…父昌幸が他界。
そこから信繁は更に3年余り…計15年の蟄居生活を強いられた訳で。

NHKの幸村の特番でも言ってたけど、
この「男盛りの15年」というか…「人間盛りの15年」を、
軟禁生活でただ徒に過ごして行く事は、
信繁のような武将には耐えられない事だったんじゃないかと、私も思う。

しかし、その堪え難きを堪え、忍び難きを忍ばせたものは、
やはり「生への強い執心」だったんじゃないかな…。

謹慎中の貧乏な時期に、信繁が子供をこんな沢山作るなんて…、
「やる事が他に無かったから」だとか、
「ますます貧しくなって首を締める行為」だとか、
「苦労している信之兄ちゃんに迷惑」だとか…、
現代の感覚ではそういう事になるのかも知れないけど、
だけどね。

個人的には…、
信繁は…自分の子孫を残したかったんじゃないかなあ、と思うんですよね。
この時代、何人子供が居てもなかなか健康に育ってはくれない。
だとしたら…。
蟄居の寄る辺無い身の上で、自分の生きた証としても、
また、真田家の血筋を父:昌幸のように守り通すためにも、
子供が沢山欲しかったんじゃないかなぁ…と。
(それと勿論…信繁夫妻の仲が良かったんでしょうね、そこはやはり)。
勿論ね、
「漢として再び、徳川に敢然と戦いを挑む」という気概もあっただろうけど、
だけどこの長い蟄居生活では…何がどうなるかなんて、先は分からない訳だから。
まあ、生活が苦しくなるのは目に見えてるけれども…。

そして。
とうとう大阪冬の陣、夏の陣を迎える事に。
信繁は九度山を出奔して大阪城を目指し、赤備えで戦場に立つ。

個人的には…この時の信繁の決意はどんなものだったのかと思うと、
ちょと……じんとします。
15年の蟄居生活の後半、
信繁は「最近は髪も白くなり歯も抜け」というような手紙を書いている。
ひとかどの武将として…やはり相当苦しかったと思われ。
それが…とうとうチャンスが巡って来た!!。
ここが…彼にとっての乾坤一擲の場だったんだな…と。

そうして…御存知のように、真田丸という一種の砦、出城を作って、
得意の真田戦術で徳川勢を何度も押し返し、窮地に立たせ、
家康に一度は死を覚悟させた信繁。

しかしここにも…真田兄弟の立場の難しさが見え隠れします。
それは…次回。
posted by 夏草 at 12:34| Comment(0) | 家族の肖像 〜真田家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

家族の肖像 〜真田家11〜

今日も今日とて絵師のぼやき(笑。
ひや〜〜バタバタしてるぜえっっっ(ハァハァ。
でも俺は負けぬ!!負けぬわぁあっっ!!。←吠えてる間は大丈夫(ぇ。




***拍手御礼(18日)*******

>marume様

いつも見て下さって、
どうもありがとうございます!!。
コメント嬉しいです☆どもども!!。
男の太腿!!。
以前、堤真一さんの舞台で、
着流し姿の堤さんの裾はだけ〜の♪で、
絵になる見事な太腿を見て以来??…太腿萌えです(笑。
宜しければ、また遊びに来て下さい☆。

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昨日の記事でやっと初陣を飾った信繁(幸村)w。

この戦いは、
秀吉軍が北上して北条を攻める、あの小田原征伐の、
「碓井峠を越える北国隊(前田利家、上杉景勝、真田昌幸)」の、
であった訳ですが。

真田信幸率いる真田の小隊がまず、碓井峠の与良隊を討ち崩し、
その後、松井田城へ大道寺軍を追い詰め、
北国隊は3月に同城へ総攻撃をしかけますが、
この城、北条方も自信を持つ堅牢なものだったらしく、
籠城が一ヶ月続いた後、
やっと本丸まで攻め込み、開城させ…北国隊の勝利となります。

北条氏は小田原城自体が、本当に攻めるに難しいお城で有名でしたが、
支城もなかなかのものが多かったらしい。
各地に点在するそれら北条の前線基地となる城を、
秀吉は各武将、各隊に命じて方々攻めさせ、
(言わば、北条という巨大な身体の手足をもぐように)落として行くのですが。
この後も、厩橋城、箕輪城…と次々と陥落。
徳川勢、浅野長政勢も上総、下総、武蔵の支城へ進軍、攻略が続く。

余談ですがその中に…、
あの「八王子城」も含まれてますね。
これは前田、上杉、真田隊15000の大軍による戦いで、
直江兼続や前田慶次も参加していたと言われ、
兵士だけでなく、結果的に、城に逃げ込んでいた女子供まで虐殺、
城内の滝は三日三晩血の色だったという…大変凄惨な合戦で。

やはり…戦というものは…綺麗ごとではありません…。

そしてもう一つ、
最近は『のぼうの城』で有名になった「忍城(おしじょう)」も。
別名「忍の浮き城」と呼ばれる名城で。
これは石田三成に攻められたのですが…こちらは実は落城してはおりませぬ。
本体小田原城が陥落したので、それに伴い開城したと。

三成は頭脳派なんだけど…いまいち武略下手という評価があって。
ここでもやはりそうなのか!?。
いえいえ…これはやっぱり忍城が優れたお城だったんだと思います☆。
(なにしろ昌幸おとうが先鋒隊だったのに、ダメだったりしたしね)


という事で…。
数々の激しい戦乱を越えて…大軍で包囲された小田原城、
時の趨勢には抗えず…ついに…落城。
時に天正18(1590)年の2月から7月にかけての事と。


そして。
真田さん家はこの戦役で大きく名を上げたのですが。

しかし華々しい武功のこの後が…寧ろ真田家にとっては試練の時。

大きな権力をふるった太閤秀吉が亡くなり、
「犬伏の別れ」で真田親子は東西に袂を分ち↓、

http://ikiikien.seesaa.net/article/145786169.html?1271645978

真田親子の関ヶ原:第二次上田合戦を迎え、
結果、
戦いには勝っても、時代の流れに破れた真田昌幸、信繁親子は…、
和歌山県の九度山に蟄居の身の上となるのでした。

http://ikiikien.seesaa.net/article/145867236.html?1271646043

この時、
昌幸には随行家臣が16人、信繁は妻子を伴っていて。
蟄居とは言っても、このような破格の待遇なのは、
信之が家康に嘆願した結果でもあり、
家康が真田親子に一目置いていた結果でもあると言われてますが、
真田兄弟は、更に数奇な運命の展開を迎えます。
posted by 夏草 at 12:12| Comment(0) | 家族の肖像 〜真田家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする