2010年03月19日

家族の肖像7 〜弟の面影〜

東京都あきる野市。
ここに「白萩の名所」として知られている大悲願寺がある。

元和8(1622)年8月、
政宗公は五日市秋川(=現:あきる野市)に鮎漁に行き、
この大悲願寺を訪れた。

時に政宗公55歳。

時節柄、寺には白萩が咲いていて、その余りの美しさに、
政宗公は後で飛脚を寺に遣わし「この白萩を所望」との書状を送った。
この時の住職は海誉上人(十三代目住職)で、
余談ながら、
あの天海和尚と並ぶ人物と言われた僧侶であったそうな。

そして、
海誉上人には秀雄(しゅうゆう)という名の弟子が居た。
そしてそして。
政宗公の「白萩所望」の書状の包紙には、
後の二十四代住職:如環上人の筆で、
<秀雄は伊達輝宗公の末子、すなわち政宗公の弟である>と、
書き添えられていた……!。

政宗公の弟。
それは…たった一人だけのはず。
あの毒殺未遂事件の後、兄:政宗公に斬られた、
弟:小次郎政道、その人だけと。

小次郎君の亡骸は、その傅役:小原縫殿助(おばらぬいのすけ)によって、
横山(=義姫の田地、宮城県登米)に埋葬されたが、
小次郎君の菩提寺:長谷寺(ちょうこくじ)の『長谷寺縁起』には、
<小次郎君は一命をとりとめ、縫殿助と一緒に落ちのび、
しばらくの間どこかに隠れ住んだ>という記録があるらしい!。

このような経緯から、大悲願寺の秀雄なる僧侶こそ、
実は……政宗公の実弟:小次郎君ではないのか?という説を展開する人も。
つまり…「政宗公毒殺事件」は、小田原遅参の言い訳のための全くの狂言で、
実は誰も死んではいない…と。

もしもそうであったなら…この「白萩の寺」で、
政宗公は弟君と対面したという事に…。

小次郎君は、
享年8歳とも13歳とも、17歳、18歳とも伝えられていて、
伊達家的にも余り記録が定かでは無いらしい。
という事で…、
兄弟の年齢差は、最大で15歳、最小で5歳という事になり、
大悲願寺での邂逅の時には、
もし秀雄=小次郎政道なら、彼も30歳〜50歳くらいと…なりましょうか。

既に嵐は昔日の事となり、
互いに年齢を重ねて大人になった二人、
揺れる白萩の間、兄弟の邂逅はとても静かだったのでは…と、
そんな想像にかられます。

もしも。

もしも。

悲劇の人:小次郎君が本当は生きていたら…。
武蔵野国の山深い寺で…ひっそりと修行に生きていたら…。
ついつい…そう願わずにはいられません。

因みに、
政宗公の書状はこんな風…。

<(前部略)
先度者参(せんどは参り)、
遂会面本望候(会面を遂げ本望にそうろう)、
仍無心之申事候共(よって無心の申す事そうらえども)、
御庭之白萩一段見事候キ(御庭の白萩一段と見事にそうらいき)、
所望候(所望そうろう)、
先日者申兼候而(先日は申しかねそうらいて)、
罷過候(まかり過ぎそうろう)、
預侯者可忝候(預けの者にそうらはば、かたじけなかるべくそうろう)、
(後略)>

訳に挑戦→)
「先頃はお参りしお会い出来た事本望です。
それで願いしたい事があるのですが。
お庭の白萩が一段と見事で、戴きたいのです。
先日は言い出しかねて帰りましたが、
遣いの者に下さると…とても嬉しい」


訳は我流なんで心もとないですが(ダメじゃん!、
とにかく、
政宗公は「白萩が欲しいんだ」と言って…ますよね?(笑。
白萩、この後ちゃんと仙台に送って貰えたそうです。


毎年白萩の季節になると…、
政宗公は、そのはかなくも清い姿に、
家の正史より身を引かざるを得なかった弟を…、
重ねて…見ていたのかもしれません……。


秀雄は後に、大悲願寺十五代住職となっています。
そして、
この大悲願寺への書状は「白萩文書」として、
今も寺に伝わっていると。



現在でも仙台市内で、この白萩が見られる…それは博物館の前!。
なんでもこの白萩は故事に因んで、
昭和48年に再び大悲願寺から仙台に贈られたものだそうで。

そして。
原哲夫さんの漫画『花の慶次』では、
<政宗様は、実は弟を殺さなかった>という
ストーリーになってるそうで…。
posted by 夏草 at 00:45| Comment(0) | 家族の肖像 〜伊達家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月17日

家族の肖像6 〜二人の距離〜

今日は、
義姫の「政宗公毒殺未遂事件」の顛末の後半です。

政宗公は薬で回復し、
その2日後の天正18(1590)年4月7日、
弟の傅役:小原縫殿助(おばらぬいのすけ)の屋敷で、
弟:小次郎政道を自ら粛正します。

『伊達治家記録』にはこうあると。
<小次郎ニ科(とが)ハナケレトモ 母ヲ害スル事ハ不叶(かなわず、
故ニ如此(かくのごとく)ストノ玉フ(のたまう)>

この同日、
政宗公の元に居られなくなった義姫は、
兄:最上義光を頼って山形に出奔した…というのが長らくの定説でしたが、
1999年に虎哉和尚の手紙が新たに発見され、
それには「政宗公の北堂(=母)が今月4日山形に出奔した」と、
書かれている事が分かったのです。

これは文禄3(1594)年の書状で、
つまり…義姫は小次郎が政宗公に成敗されて後4年は、
山形に行っていなかった=政宗公の元を出奔していなかった…、
という事になります。
つまりつまり…、
「毒殺疑惑があった母親と息子の仲はそんな悪く無かった」という事に。

事実、
文禄2(1593)年には秀吉の命で政宗公は朝鮮へ出兵しているのですが、
旅先から何度も義姫に書状をしたためていますし、
義姫からも返事が来ているのです。
政宗公は「朝鮮での戦役が伊達軍と自分にとってとても辛い」事を書き、
母からは息子へのねぎらいと金子が届けられ…、
それを政宗公が有り難く受け取って、
慣れない彼の地でやっと探した母への贈り物を送ったりしています。

だから。
義姫の「息子毒殺未遂」は…果たして真実なのかどうなのか!、
とてもとても知りたい、確かめたい所ですね!!。

うぅ〜〜ん。
だからね…そうなって来ると…成敗しなければならなかったのは、
寧ろハッキリと「弟」であり、
何故なら「弟についた家臣団」の求心力を削ぐ事が第一の理由だった…、
事になりませんか!。
兄:政宗公と同等の頭領格さえ居なければ…。
いやいやいや…でもそれって…義姫の心情はどうなのよ?。
これで、政宗公と上手くやって行けるものかな?。
う〜〜〜〜〜〜んんんんん。
ダメだ。
ますます謎が深まるばかり…(トホホ。


その後…、
山形で過ごした後、義姫は老齢になって政宗公に請われ、
仙台に来て仙台で没しています。
(しかし逆に言うと、仲が悪く無いのなら、
小次郎の死から4年後に何故義姫は実家へ帰ったのか…?、
そしてある期間、何故政宗公の元には帰って来なかったのか…?、
その理由も肝心な事なのに不明で…不可解ですね。
真相は一体何処にあるんじゃ!…知りたいのお…。)

いずれにしても、
伊達家の血族間にはこうして…辛い離別が様々ある訳なのですが、
ここに来て、
犠牲になった悲劇的な弟:小次郎(結局一番可哀想ですよね)について…、
ある異説がある事が分かりました。

これが真実だったなら…少しだけ…ホッとする、
歴史のレジェンドはまた次回……。
posted by 夏草 at 00:07| Comment(0) | 家族の肖像 〜伊達家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月15日

家族の肖像5 〜暗夜、影二つ〜

***拍手御礼(14日)*******

>1時台、匿名で拍手くださった方

拍手どうもありがとうございます!!。
新しい絵に拍手いただいたんでしょうかv。
励みになります☆。
次はまた…ぼやぼやしながら、まんが描こうかと…。
宜しければ、また遊びに来て下さい☆。

*******************


ついに。
政宗公が小田原参陣を決する時が来た。
太閤側から再三の呼び出しを喰らったものの、
なかなか腰を上げずに…結果、月日はだいぶ経っていた。

前にもちょと書きましたが、
その間のつなぎ役として、前田利家、浅野長政、和久宗是を始め、
上方の武将達を頼みに、決断までの時間を稼いだ…とも言える出陣で。

しかし。
ここで…大きな凶事が政宗公と伊達家を襲う事に。
災いは身内から。
母:義姫の「息子殺し」…「政宗公毒殺未遂」とされるあの事件です。

これについて伊達家の正史『治家記録』には、
どうも二説書かれているらしい。
(というのも、
この記録は実は江戸時代に編纂されているものなので、
リアルタイムでまとめられたものでは無いらしい。
なので、
記録自体が混乱している事も考えられる上、
言わば…政治的な色合いも濃いと言えなくも無い文書なので、
後代の思惑というものも…含まれていないとは言えませんね。)


一つの説には、
「参陣に際して、母:義姫が政宗公を饗応する事になったが、
毒味した供の者が吐血し、これで陰謀の存在が明らかになったと、
政宗公は帰館し、難を逃れた」と。

もう一つ。
これは…なかなか生々しい。
<或記ニ云ク 
御西館ヘ饗応ニ御出、
御膳過テ油煎ノ御菓子 或御膳ノ御膾トモ云フニ毒ノ入レタルヲ 召上ケラレ
吐逆シ給ヒ、御気力弱ラセラル。
(中略)片倉小十郎等馳参参リ負ヒ奉テ帰ル>

(訳に挑戦→「ある記録では、
政宗公は御西館(多分、母君の館)へ饗応を受けに行かれたが、
御膳が終わって油煎のお菓子かあるいは御膳の膾とも言われているものに、
毒が入れられていた模様で、政宗公はこれを召し上がって吐かれ、
ぐったりなさった。
片倉小十郎が馳せ参じ、政宗公を背負って帰った。」

その後、政宗公はすぐ解毒剤を飲んで、
事無きを得たと『治家記録』では続いています。

後者説だと、
経緯とか「小十郎が背負って」という辺りが…なんかもう、
「リアルな感じがする!!」と思ってしまうのですが…。

そこから…。
可愛く無い長男。次男の方が好き。
そういう理由で毒殺になるのか…という事を考えてみるのですが、
義姫はなにしろ「姫武将」な女性です。
やはり…そういう感情的な事柄だけで、
この事件が起こったとは…自分的には思えない。
これ、
やっぱり裏には「兄弟それぞれに付いている派閥」みたいなもの、
その激しい勢力争いの結果だったんじゃないか…と。

だけどだけど。
そうは言っても。
物事は案外と「理屈と感情、どちらが先かは分からない」もの。
ましてや実際には…本人が気付くと気付かぬとに関わらず、
人は心底にあるものが行動を促しているもの。
昨日も書きましたが、確かに義姫は政宗公が嫌いだったかも。
合わない母息子だったかも。
だからこそ、竺丸=小次郎政道に次代の伊達家を継がせたい、と、
そうなった…のかもしれませんが。

結局、心情と思惑と周囲の野心と…、
全てが権力闘争の方向で一致したのでは…と、
個人的には思ってしまいます。


そして。
政宗公の報復もまた苛烈でした。

母が溺愛していたとされる弟を殺す事になる訳で。
これもまた、自分が伊達の跡目である事を盤石にするためには、
もうこうなると、政宗公にとって、
避けて通れない必要不可欠な「弟の粛正」かもしれませんが、
こういう文字通りの「骨肉の争い」は如何に戦国時代といえども、
母息子にとって、もの凄くキツい事だったのでは…と感じます。

息子を殺そうとする母。
そして…結果、弟を殺してしまう兄。
表面的に取れる、政治的意図はハッキリしています。
しかし…その裏面に流れる心情は…どうだったのでしょう。

闇夜を行く影二つ。
それもある意味、ある所で、
とても似ている…とても辛い影法師かもしれません。

いつも書いていて恐縮ですが…、
戦国時代はホントに…大変な時代です。
posted by 夏草 at 00:58| Comment(0) | 家族の肖像 〜伊達家〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする