2018年05月07日

政宗さま、あなたもか…

わっはっは。
なんでしょうね、このタイトル。

これでお分かりのあなたは…もう相当ですっつかなんつかw。

そう、
今や巷の笑い…じゃなくて話題をさらっているドラマ、
『おっさんずラブ』での話です。

詳しくはテレ朝の公式を見て戴くとして(ぇ、
とにかく…天空不動産東京第二営業所を舞台とした、
そこの部長と社員の春田、牧が繰り広げる、
熱い恋愛コメディ(今のところ三角関係?)です。

まあぶっちゃけ、構図はBLっす(わははははははは。


でもこれね…本当にキャストが豪華なんですよ。

主人公:春田創一は田中圭さん。
もうね…色々と本当に残念だけど、とってもお人好しな、
ピュアな??(いや子供なだけだろ…面白いけどw)33歳。

田中圭といえば…個人的にはいつもちょっとクセのある役とか、
扱いにくい役、クール系を多く見ていたので、
(『軍師官兵衛』じゃ石田三成だったもんね。
「ああ〜田中圭来たなあ」ってあの時も思ったw)
今回の春田役は本当に意外で。

ロリ巨乳好きのノンケのはるたん(あり得る設定に爆笑)は男性に恋されて、
もう何事にも動揺ヨロヨロしっぱなし。
こんな田中圭が成立するのか!!と個人的にはとても新鮮で楽しいです♪。


そして本作のヒロイン:黒澤武蔵部長(55歳)は…吉田鋼太郎だ!!。
彼は春田に一心に恋しているわけですが、
この人って私生活でも恋多き男という印象なので、
流石というかなんというか…その恋愛への向き合い方が凄く良いです。
経験が生きてるのか…と邪推する程(わはははははははははは。
舞台俳優さんでもあるので、声も良いし姿勢が綺麗。
あと…「武蔵の部屋」というインスタが…凄いですwwwww。


そして、部長の若きライバル:牧凌太(25歳)は林遣都さん。
牧クンも春田が好きなわけだが…その一途な眼差しが切ない。
個人的には林遣都さんの名前は知っていたけど、
特に関心の無い俳優さんだったんですが(ごめんなさい、
今回、思い詰めた牧クンがとっても良いと思いました。
片思いに苦しむ感じがとってもリアル。
恋愛ってやっぱりいいな……とつくづく思ったり。


そして…なんと黒澤部長と牧クンは直接対決までしてしまうのです。

牧「部長では春田さんを守れない!!」
黒澤「今の春田を作ったのはこの俺だ!!」

くはっっっっっなんだなんだこの熱さはwww。
「私のために争わないで、もぉこれ以上〜」ですよおおおおwww。
もう嬉しさとおかしさで笑い転がって見ております。



だいたいね、BLものって今までだと、
適当に若手イケメン入れてイチャイチャさせて…的な、
ヌルい作品が多かったと思うんだけど、
このドラマはもの凄く本気です!!。


まあもう主役三人が凄く上手い&美味い上に、
脇には大塚寧々さん(部長の奥さん:黒澤蝶子役)
↑昔から好きな女優さんなので、出ていて嬉しい
目力のある内田理央さん(はるたんの幼馴染み:荒井ちず役)、
そしてコメディエンヌの伊藤修子さん(事情通な会社の同僚:瀬川舞香役)、
飄々とした金子大地さん
(へたれ新人で今後トラブルメーカーになりそうな:栗林歌磨呂役)…と多彩です。


しかし。

しかし、だ。

自分的にとっても気になっていたのは…眞島秀和なのだ!!!。
このメンツに最初から何気なく入っている眞島さん。
おかしい…おかし過ぎる…何故眞島さんなのだ!!!…と。

その疑惑はついに!!来週第四話で明かされるらしい!!。
眞島さん演じる武川政宗主任(44歳)もまた!!
ゲイらしいのであるっっっ(くはっwww。

潔癖性の独身貴族、仕事に厳しいメガネ男子:政宗さま!!!。
これがただ素通りする役柄じゃないって、
もうキャスティングが物語ってるじゃないか!!!。
あああああ〜〜どこまで仕掛けてくるんだ、このドラマ(わはははははははは。

眞島さんはでも…最近ゲイの役多いんだそうですね。
前にも書いたけど、眞島さんも昔から大好きなんですよ。
でも自分的には『深夜食堂』とか『CRISIS』とかでしか見てないんで、
肝心の(肝心のってw)ゲイ役が未見なのが…もの凄い残念だっっっ!!!。

眞島さんのメガネをくいっと上げる仕草がもうね、
俺を殺す気かあああああーーーーー!!!って感じですwww。


そして最後になりましたが。
シナリオももの凄く本気です。
いい加減なストーリじゃありません。
細部もちゃんと作り上げられていて、恋愛の機微がオカシクも切なくテンコ盛り。
これで泣いて笑って…楽しくテンションも上がるドラマとなってます。

というわけで。
コーフンの余り、ちゃんと文章になってるかどうか分からないけど、
『おっさんずラブ』の行方が気になって眠れない最近ですwww。

あ、ところでアテクシは…全員応援してますwww。
いやもうこの人達全員らぶいですよ!!!。
posted by 夏草 at 17:32| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

2017年をしめくくる「お城祭り」

12月22日〜24日、
横浜で「お城EXPO2017」が開かれまして。

いやあ〜この会場の隣のホールじゃ、
福山雅治さんの年末恒例、連続コンサートやってるんだよ…。

もうね、
そうでなくても世の中クリスマスまっただ中、
横浜のクリスマスといったらカップルだらけの中、
ここに来るような人はね…命知らずの??の城スキーだ!!!(ぇ

勿論自分も…行って来ました♪。
ええ、そうです、城バカですよ〜自分も立派な(わはははははははは。
もうね、開催中は毎日お城三昧で過ごせます♪。
一日目は友人と、二日目はツレと、三日目は一人で行って来ました♪。
↑もはやつける薬無し


で、
ちょっとレポートなどしますれば…。

まず、著名な先生方のお城や歴史にまつわる講演が沢山あって。


小和田哲男先生、小和田泰経先生そして笠谷和比古先生の
『関ヶ原合戦をめぐる諸問題 〜豊臣家の動向を中心に〜 』では、

<徳川家康が上杉景勝を討ちに北進していた時、三成達が挙兵する訳だけども、
最初は、淀殿や大坂方三奉行は「三成と吉継をなんとかして欲しい」
(=争乱を平定して欲しい)と家康に書状を出して援助を求めていたのに、
その後の4日間で三成達にオルグされた形になり、
いつのまにか家康の立場は反転、謀反人とされてしまったのが本当の所>と
笠井先生が史料をひきながら力説されていて…これが本当に面白かった。

出来事が定まってしまった後世から見ると、どうしても、
「最初から全て決まっていての事件=最初から家康は大坂方の敵」と取り易いけど、
そもそも家康の立ち位置がそういう風に変化した…という事、
これがあると色々な事が合理的に説明できますね。

近年は関ヶ原の戦い自体、豊臣家の内紛という捉え方だし、
家康がこの頃は豊臣を滅ぼそうなどと露程も考えていなかった説も、
このような流れだとより納得が行く。


本郷和人先生の『戦国夜話 〜前田家の城〜』もすご〜く面白かった。
先生は「そもそも何故城を攻めるのか?」と。

ヨーロッパのお城や城塞都市は街道を取り込んでいるから、
ここの城門が閉まってしまうと…街道が封鎖される事になるので、
どうしても行軍勢力は、街道確保のために城塞を攻め落とさなくてはならないが、
日本の城はそもそも街道の上に立ってる(街道を取り込んでいる)のは極少数、
寧ろ街道の脇にあるから…攻めなくてもいいのではないか?、
スルーで良くないか?…という所から始まりまして。

そうなんですよ…私も常々そこが疑問だった。
スルーできるような規模の小さいお城って結構あるじゃないかと。

まあしかし…アレですよね、
不用意に通りすぎて背後を衝かれるのが怖いので(=所謂後詰め)、
通り道の城は砦規模でも制圧するか、
別部隊=備えを置いて睨みを利かせつつ、
本隊の軍は目的の場所へ進んで行かなくてはならないと。

こんな所から「日本に於ける城を落とす意味」のお話、
凄く面白かったです!。

そして、
金子拓先生の『信長の天下戦略と長篠城攻防戦』も、
史料を沢山ひいてのお話で、とても刺激がありました。

ちょっと前まで織田信長という人は「第六天魔王」が災いして?、
何かもの凄いドラスティックな革命児、
徹底的な合理主義革新者…みたいなイメージで語られたと思うのですが、
昨今は研究が進んで…実は既定路線からの秩序維持に尽力した、
ある意味非常に従来の王道的な考え方をする人、
という風に捉え直されて来てると感じるのですが、
金子先生の論は更に押し進めたもので、
これも信長像として様々に納得が行きました。

平山優先生は、
『武田氏の両国拡大と城郭』というテーマでしたが、
自分的には、
武田に見られる築城の「鍬立て/くわだて」というものに
かねがね疑問がありまして。
ちょうどその部分も解説があり、
「武田氏は最前線の城を落として自軍のものにすると、
その城を一度破却して<鍬立て>を行う。
これは、敵方の城を壊してから自分の城と再生するという意味を持った、
一種の呪術的儀式>だったのでは…」という事で、
おおー!!…そうだったのかと。

武田軍ってまだまだそういう所あったのかも。
山本勘助だって、結構陰陽師的軍師で、
天候やら日取りやらで出撃日や戦術を決めたりした事もあったというし。

歴史小説家の伊東潤さんとミリタリー・ライターの樋口隆晴さんの
『城を攻める 城を守る』も興味深かった。

自分はどうしても歴史的な所から城を見がちだけど、
そもそもお城は戦のためにあったものなのだから、
実際の戦略や戦術を考えるという視点は、
曲がりなりにももう少し鍛えておかないとなあ…と思いました。
その方がますます、お城の縄張りの意義や場所の意義も理解できるので。

山中城の事を「双頭の蛇」と形容していたのが、
とても分かりやすかったです!。

三浦正幸先生の『天守の構造と意匠を見直す』や、
諏訪間順先生と黒田基樹先生の『北条氏の領国と城』も、
分かりやすく、しかも内容が盛り沢山で楽しかった。


そして会場には…、
ここぞとばかりに集められたコアな本や地図、
城プラモデルに段ボール甲冑、
お城&歴史グッズが販売されていたり、


↓見て見て!「山中城ワッフル」!(わははははははははは)
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各地の自治体や歴史関係機関、お城後援会?から沢山出店があって、
各地武将隊の皆さんと写真撮ったり、


↓「名古屋おもてなし武将隊/ノブ様と踊舞(とうま)さん」
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無料のワークショップやらトークショー、
お城の様々な資料、ポストカード、バッジ等々…無料でもらえたり。


↓松江城の武将隊の皆さんとじゃんけんして勝たせてもらいw、
 ペーパークラフト「松江城』ゲット!!(自分で作りましただ!)
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更に、
お城の研究発表やら、
お城ジオラマ製作の方達の作品やお城写真の発表やら、
日本100名城&続100名城のパネル展示、
そして…ゆるキャラ…などなどが展開。


↓今年は大活躍!直虎ちゃんと家康クンです☆
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そして…凄いジオラマから2つ…。
(すみません、制作した方が三人おられるのですが、
どれがどの方の作かちょっと不明)
岐部博さん、二宮博志さん、長谷川進さん…作。


↓当ブログ的に「仙台城」
 懸け作りの再現が凄いです!!
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↓やっぱり華麗だな「安土城」w
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ちょっと疲れたら……
↓「武将ケーキ」www
 これ…インスタ映え?だけじゃない!!凄く美味しかった!!
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そして…最後に。

頑張れ熊本城!!!。
アテクシも及ばずながら…一口城主でございます。
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……コミケとちょっと似たような空気の(わははは、
お城スキーの大祭典でございました。

皆様お疲れ様でした☆。
とっっっても楽しかったです☆☆☆。
ラベル:お城EXPO
posted by 夏草 at 00:39| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月02日

流転の横顔 〜石川数正〜

そう、石川数正です!。

今年の大河ドラマ『直虎』で大活躍中の…。

ホントにね…ドラマ史上、
いまだかつてこれほどのイケメン数正がいたでしょうか!!。
中村織央(なかむらおずの)さんの男っぽい無頼な面差、
気骨ある態度、溢れる優しさ…ただただ眼福としか言いようが無いですねw。


しかし。

では歴史的な石川数正ってどんな武将?と問われると…どうでしょう?。
歴史ファンの間で名が知れている割に、意外と謎の多い人物と感じる。


『直虎』でも描かれるように、
徳川家にとって歴史的にかなり有能な家臣なのですが、
ある出来事を境にして、
彼の後半生が今ひとつ表には浮かび上がらなくなった、
そして実績の割には、
今日まで世間的に余り評判が高まらなかった…と思われるのです。


その出来事とは。

石川数正は家康の股肱之臣でありながら、
徳川家天下統一の道半ば、
1584(天正12)年:小牧・長久手の戦いの翌年、
第一次上田合戦の直後に徳川家を出奔、
豊臣秀吉方についた…という凄い事件があるのです。


これは一体どういう事なのか?…。


そもそも彼の家系は、
祖父:石川清兼の代から松平(徳川)家に仕えている譜代の臣であり、
その意味でも生粋の三河武士。

家康が生まれた時、清兼は蟇目役を仰せつかっているという。

蟇目役というのは…「蟇目」を射る者の事で、
「蟇目」というのは射ると音が出る矢の事、一種の鏑矢であるらしい。
(音が出るから「響矢」などとも言うらしい。
正確には、穴を開けて音が出るようにした卵形のものを
鏃に被せて矢に装着するそうで、
この卵形を「蟇目」というと…)
これは邪気や魔物を払う力があると信じられていたそうな。
なので、
松平家の嫡男誕生という、家にとってとてつもなく大事な時に、
清兼がその蟇目役というのは、
それだけ石川家が重きを置かれていた証…と言えるかと。


そして、
数え6歳の徳川家康(この頃は松平元康)が、
1549(天文18)年に今川の人質になった時、
数正は酒井忠次とともに供奉筆頭として竹千代について行くことに。
以降10余年に渡り、
紆余曲折のあった人質時代を主と共に乗り越えて行くんですよね…。

因に、
数正の出生が何時なのかが確定していないため、推定の話になるのですが、
彼は家康よりやや年長(一説には10歳ほど)という事で、
幼君と年齢が近かったという事は…数正は家康の家臣であると共に、
兄のように非常に密接に主を守り支えた…とも言えるのでは。

酒井忠次の方は家康より16歳年上。
こちらは更に年齢が上なので、
酒井忠次の決心の程も相当だったと想像します。


なにしろ家康は、駿府の今川家へ向かう途中、
織田信長の父:織田信秀にインターセプトされ、
2年くらい織田家に留め置かれたという事もあった。
その後、
信秀が謀反に依って死亡し、今川義元が家康を「取り戻した」と。

今川家には有名な太原雪斎(崇孚)/たいげんせっさい(そうふ)という高僧が居て、
義元の右腕(というか実質上のNo.2)だったこの人が、
将来の今川家幹部候補として家康に学問を授けた…という説もありますが、
反面、大河ドラマにもありましたが、
家康は今川の使いっ走り的というかなんというか、
いろいろと戦に従軍させられたりして…成長しても苦労は多かったと思われ…。


そして…1560(永禄3)年、
桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、
今川家中の混乱に乗じて家康は岡崎城に自力で帰還。
やっと今川家から独立する事ができたのでしたね。

しかしながらこの時、
今川にはまだ正室:築山殿(瀬名)と嫡男:信康などが置き去りにされていた。
この二人を取り戻すために手腕を発揮したのが…石川数正だったと。

交渉係となって粘り強く今川氏真と渡り合い、
陥落した上ノ郷城で捕えた、
鵜殿氏長(うどのうじなが)と弟:氏次との引き換えによって、
築山殿と嫡男:信康、長女:亀姫を救出する事に成功したのですよね。
その後、数正は信康の後見人になっています。
(氏長の祖父・鵜殿長持の正室は今川義元の妹なので、
鵜殿氏長・氏次は今川氏真の従兄弟という間柄)


そして更に数正は、
織田家との清洲同盟を取りまとめる役目も果たします。


実は先のジェネレーション、織田信長の父:信秀と、
家康の祖父:清康&父:広忠とは戦乱を繰り広げた敵対関係にあった。
(だから家康も一時織田に取られたわけで)
そもそも松平家は今川家と結んで織田にあたっていた所を、
家康が今川から離反したため利害関係が一変…織田との同盟が必要となったのですね。

なので…徳川家の内部でもそれまでの織田への遺恨から
織田と結ぶ事に賛否が渦巻き非常に揉め、交渉は難航したらしい。
(勿論、数正は家康の命でやっているわけなのですが…)
それで…桶狭間の戦いの2年後(1562年)に数正の努力が実り、
今後20年間信長の死まで続く清洲同盟がようやく正式成立へこぎつけた…と。

(信長との交渉役はその後(長篠の戦いの辺りからか??)、
酒井忠次に受け継がれた模様)

この同盟から家康の三河・遠江攻略が本格的に進み、
1564(永禄7)年には三河を平定。
家康は、東三河には酒井忠次、西三河には数正の叔父:石川家成、
後に石川数正を旗頭に据えた。
徳川家中では忠次、数正は「両家老」と称される重臣となっていったそうな。


また数正は武将としても優れていたらしい。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いに従軍、
1570(元亀元)年、姉川の戦いでは信長方として浅井に対抗、第一軍を率いた。
1573(元亀3)年、三方原の戦いに参陣(徳川は武田信玄に惨敗)、
1575(天正3)年、武田勝頼との長篠の戦いでは鳥居元忠と空堀や馬防柵も作り、
目覚ましい働きをして味方の勝利に大きく貢献した…と。
そういう時代だったと言えばそれまでですが、
もうホント連戦に継ぐ連戦…文字通り席の暖まる暇も無いですね。
この頃の徳川軍は寡兵、劣勢、長丁場…、
ホントに苦労は一肩ならぬものがあったでしょう。


一方、
このような流れの間に更に1564(永禄7)年三河一向一揆が勃発。
忠君厚いはずの三河武士も徳川家中の半数が離反、家康と干戈を交える事になった。

数正の出た石川氏も三河一向一揆の中心:本證寺の門徒であったため、
数正の父:康正は一向宗側についた。
しかしながら、叔父:家成と数正は家康への忠義を通し、
これに感じ入った家康は家成に石川家の家督を継がせ、戦後、数正を家老にしている。
(因に、家成は実は家康の従兄妹。
家康の実母:於大の方の妹が家成の母(於大とこの母が水野忠政の娘)


そしてそして…数正の人生で恐らく最大の悲劇が訪れる。

天正7年(1579年)、
徳川家による築山殿の殺害と松平信康の自刃。


幼い家康の人質生活に近侍し、
誰よりも主君の艱難辛苦を知っているはずの数正が、
一方で、己の力を精一杯使って救い出したはずの御方様(築山殿)と信康の、
こんな形での死に直面するって…。
しかも、織田信長との清洲同盟を取り持ったのも自分……。

当事者全てを身近で見ていた数正の胸中に去来したのは、
一体どんな思いだったのでしょう…。

そして、
築山殿と信康亡き後、岡崎城の城代を任されたのも…実は石川数正なのです。

ドラマでも描かれましたが、きっと実際も岡崎城中は混乱したと思います。
だから家康は数正を信頼していたからこそ、この時この大役を任せていた…と。
やはりここまで、数正は徳川家のもの凄い重臣ですね。


更に1582(天正10)年、本能寺の変の直後、
名高い「家康の伊賀越え」にも数正は同行していて、
井伊直政や本多忠勝らと共に主君の何度目かの窮地を守りきった。

しかしこのような状況により、
家康は主君(と言える)信長の弔い合戦に遅れを取り、
その後継者決定の場(清洲会議)への参加もできず、
もっぱら地歩固め(三河、遠江、駿河に加えて甲斐、信濃を治める)に
徹さざるを得なくなる。

しかし、
賤ヶ岳の戦いで秀吉と柴田勝家が雌雄を決する前に、
家康はどうも秀吉勝利が濃厚と見て、彼と本格的に誼を通じる事を決め、
書状をやり取りして互いに状況を伝え合った。
そして戦後家康は、柴田勝家を破った秀吉へ、
戦勝祝いの文と名品:初花肩衝(初花のこつぼ/漢作唐物肩衝き茶入れ)を
贈ったそうな。

そしてこの時の使者も…石川伯耆守数正なのです。

で、
秀吉と上手くやって行けそうに見えた局面も束の間、両雄並び立たず…、
とうとう…1584(天正12)年、
小牧・長久手の戦いで家康と秀吉は直接対決へ…。
この経緯はなかなか興味深いのですが…ここでは割愛(別項にて)。

よく言われるように、この時は事実上家康の勝利だったのです。
この時が唯一、若き秀吉を叩き潰すチャンスだったとも言えるのですが、
秀吉の頭脳的交渉術、駆け引きに負け、
家康はその後、秀吉の麾下に属する形となって行く…。

そして停戦の二三ヶ月前から、この講和の動きは出ていたそうなので、
この時も数正が水面下で尽力していたと思われます。
事実、戦後、徳川家康の使者として豊臣秀吉と数正との会見も行われたそうな。


そして……ついにそれは起きた。


1585(天正13)年11月、家康が、
うるさ型の謀将:真田昌幸との第一次上田合戦を繰り広げ、勝てなかった直後、
突如として数正は妻子とともに、岡崎を、徳川家を出奔してしまう。

いやあ…本当に「何故」!。
何故なんだ数正!!!。


これには様々な説が入り乱れておりまして。

1)徳川家に居場所がなくなった説
秀吉との交渉窓口になっていた数正。
その実力に接したせいか、秀吉との融和論者だった彼は、
浜松城の会議で強硬論派に囲まれ孤立、
更に「数正は秀吉に通じた」という噂が徳川家中で流れ、
徳川に留まれなくなったのでは…という。
秀吉側がこのような噂を流した…なんて説さえあるようですね。

2)秀吉に誘われた説
秀吉は代々武家で無いので子飼の武将がそんなに居ない。
天下取りのために強固な家臣団を望んでいたので、
他家にも多方面にヘッドハンティングを繰り返していたのは有名な話。
当然、有能な数正へも…?!。

まあでも、この1も2も…根本は同じですね。
数正が結局、秀吉に取られた…という見解かと。

そして遠因として、
3)信康自刃事件の影響説
やはり信康のあの事件が数正の心に傷を残し続けた…という説。
数正は若き信康の後見人でもあったし、
あの場で果たして彼の意見が少しでも聞いて貰えたのかと想像すると、
それはもう寧ろ、余地など全く無かったのではないか。
(酒井忠次と家康で決まった感があるし)

主君である信康を失った岡崎衆の立場が弱くなったとする話も。
数正の立つ瀬も結局無かった…という事なのだろうか。
大河ドラマ的に言うと…、
「(信康様を守れなかった)生き恥を晒して生きる事も、
もはやこれまで」と決意した…という展開も…ありなのか。

でも、ここに来て、こんな風に心が折れたとしたら…、
やはり「数正は秀吉についた」と言われたと仮定すれば、
それが引き金となってこうなった…かもしれませんね…。


あとね、小説だとこういうのもあるらしいw。
4)家康が秀吉に放った間者説
わはははははは。
数正をスパイとして送り込んだと!!。
面白くて好きだ!!…けど、
これは山岡荘八の小説ネタですwww。

で、
最後に個人的にはもう一つ妄想してみました。

5)天下取り実現を早く見たかった説(あくまで私的妄想w)
家康はこの頃42〜3歳。
だとすると…数正はそれより年長だから完全にアラフィフですよね。
人間50年と言われた時代…このままだと、
数正は天下が治まった時代を見ずして死んでしまう可能性も。

見て来たように、
彼は若い頃から家康と共に、本当に苦労したと思うし、
要として難しい役割をやり通したと思うんですよね。
それも何度も。
三河武士の中では(と言ったら他の人に失礼だけどw)頭脳派だし、
だからこそ知恵者である家康を信じてついていった(譜代だし)と思うんだけど、
でもそこに…やり手の秀吉がデッカく立ちはだかった。
それを見たら…もう俺の働く場所、こっちにした方がいいかもと思ったり…、
しなかったかなあ…。

いや寧ろ、
天下が定まるかどうかなんて事も考えられない程、
戦国時代は続いていたし(明日は見えないし)、
皆やる気満々だったのだろうけど、
知性派の数正は色々見過ぎちゃって…こんな選択になったとは言えないだろうか。
待っていられなかった…とか…そんな事は無いでしょうか?。
妄想が脳内で炸裂しておりますw…。


一方、
去られた徳川家には大衝撃が走った事は言うまでも無い。

なにしろ中枢幹部が、
企業秘密をごっそり抱いて、ライバル会社に走ったようなもの。
第一次上田合戦も早々に切り上げ、事態収拾をはかり、
徳川は先祖伝来の軍法を捨てざるを得なくなり、
一挙に武田流に変えていった…。

1586(天正14)年には、数正は和泉国十四万石を与えられ、
秀吉の九州征伐に従った後、小田原の陣にも出陣。

そしてなんと、
1590(天正18)年、信濃国松本城に八万石の城主として入ったと。

そうなんです、
現存天守の中で一番古いあの美しい松本城、
一般的には、
その城主にして松本藩初代藩主が石川数正という認識らしい。

その後、
1593(文禄2)年(異説では92年より前)、
唐入りのために肥前:名護屋城へ行き、病没した…そうな。

九州や小田原の戦役、
松本城主…と結構華々しい逸話が残りそうな所だけど、
出奔以来の数正については、伝わっているものが少ないんですよね。

豊臣に鞍替えしてから7年後に亡くなっているので、
この年月では数正の豊臣での活躍の時間は無かったのかもしれないけど、
このような大物の移籍は…取り扱いにはやはり色々と差し障りもあったのかも。
更に徳川の世の中になってから、
数正の出奔以降の実績は敢えて評価されなかったのかも。

いずれにしても…、
石川数正の人生は長い間(多分に孤独な)戦いだったように感じます。
そこを生き抜いた事、そこに骨太い三河武士の魂を感じる人でございます。



☆参考書籍☆

「戦国武将 合戦辞典」峰岸純夫・片桐昭彦著 吉川弘文館
「戦国人名事典」新人物往来社
「定本 徳川家康」本多隆成 吉川弘文館
「秀吉の天下統一戦争」小和田哲男 吉川弘文館
「東海の戦国史」小和田哲男 ミネルヴァ書房
「長野の山城 ベスト50を歩く」河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
「週刊名城をゆく 松本城」 小学館(ムック)
他…いろいろ
posted by 夏草 at 17:45| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする