2017年12月02日

流転の横顔 〜石川数正〜

そう、石川数正です!。

今年の大河ドラマ『直虎』で大活躍中の…。

ホントにね…ドラマ史上、
いまだかつてこれほどのイケメン数正がいたでしょうか!!。
中村織央(なかむらおずの)さんの男っぽい無頼な面差、
気骨ある態度、溢れる優しさ…ただただ眼福としか言いようが無いですねw。


しかし。

では歴史的な石川数正ってどんな武将?と問われると…どうでしょう?。
歴史ファンの間で名が知れている割に、意外と謎の多い人物と感じる。


『直虎』でも描かれるように、
徳川家にとって歴史的にかなり有能な家臣なのですが、
ある出来事を境にして、
彼の後半生が今ひとつ表には浮かび上がらなくなった、
そして実績の割には、
今日まで世間的に余り評判が高まらなかった…と思われるのです。


その出来事とは。

石川数正は家康の股肱之臣でありながら、
徳川家天下統一の道半ば、
1584(天正12)年:小牧・長久手の戦いの翌年、
第一次上田合戦の直後に徳川家を出奔、
豊臣秀吉方についた…という凄い事件があるのです。


これは一体どういう事なのか?…。


そもそも彼の家系は、
祖父:石川清兼の代から松平(徳川)家に仕えている譜代の臣であり、
その意味でも生粋の三河武士。

家康が生まれた時、清兼は蟇目役を仰せつかっているという。

蟇目役というのは…「蟇目」を射る者の事で、
「蟇目」というのは射ると音が出る矢の事、一種の鏑矢であるらしい。
(音が出るから「響矢」などとも言うらしい。
正確には、穴を開けて音が出るようにした卵形のものを
鏃に被せて矢に装着するそうで、
この卵形を「蟇目」というと…)
これは邪気や魔物を払う力があると信じられていたそうな。
なので、
松平家の嫡男誕生という、家にとってとてつもなく大事な時に、
清兼がその蟇目役というのは、
それだけ石川家が重きを置かれていた証…と言えるかと。


そして、
数え6歳の徳川家康(この頃は松平元康)が、
1549(天文18)年に今川の人質になった時、
数正は酒井忠次とともに供奉筆頭として竹千代について行くことに。
以降10余年に渡り、
紆余曲折のあった人質時代を主と共に乗り越えて行くんですよね…。

因に、
数正の出生が何時なのかが確定していないため、推定の話になるのですが、
彼は家康よりやや年長(一説には10歳ほど)という事で、
幼君と年齢が近かったという事は…数正は家康の家臣であると共に、
兄のように非常に密接に主を守り支えた…とも言えるのでは。

酒井忠次の方は家康より16歳年上。
こちらは更に年齢が上なので、
酒井忠次の決心の程も相当だったと想像します。


なにしろ家康は、駿府の今川家へ向かう途中、
織田信長の父:織田信秀にインターセプトされ、
2年くらい織田家に留め置かれたという事もあった。
その後、
信秀が謀反に依って死亡し、今川義元が家康を「取り戻した」と。

今川家には有名な太原雪斎(崇孚)/たいげんせっさい(そうふ)という高僧が居て、
義元の右腕(というか実質上のNo.2)だったこの人が、
将来の今川家幹部候補として家康に学問を授けた…という説もありますが、
反面、大河ドラマにもありましたが、
家康は今川の使いっ走り的というかなんというか、
いろいろと戦に従軍させられたりして…成長しても苦労は多かったと思われ…。


そして…1560(永禄3)年、
桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、
今川家中の混乱に乗じて家康は岡崎城に自力で帰還。
やっと今川家から独立する事ができたのでしたね。

しかしながらこの時、
今川にはまだ正室:築山殿(瀬名)と嫡男:信康などが置き去りにされていた。
この二人を取り戻すために手腕を発揮したのが…石川数正だったと。

交渉係となって粘り強く今川氏真と渡り合い、
陥落した上ノ郷城で捕えた、
鵜殿氏長(うどのうじなが)と弟:氏次との引き換えによって、
築山殿と嫡男:信康、長女:亀姫を救出する事に成功したのですよね。
その後、数正は信康の後見人になっています。
(氏長の祖父・鵜殿長持の正室は今川義元の妹なので、
鵜殿氏長・氏次は今川氏真の従兄弟という間柄)


そして更に数正は、
織田家との清洲同盟を取りまとめる役目も果たします。


実は先のジェネレーション、織田信長の父:信秀と、
家康の祖父:清康&父:広忠とは戦乱を繰り広げた敵対関係にあった。
(だから家康も一時織田に取られたわけで)
そもそも松平家は今川家と結んで織田にあたっていた所を、
家康が今川から離反したため利害関係が一変…織田との同盟が必要となったのですね。

なので…徳川家の内部でもそれまでの織田への遺恨から
織田と結ぶ事に賛否が渦巻き非常に揉め、交渉は難航したらしい。
(勿論、数正は家康の命でやっているわけなのですが…)
それで…桶狭間の戦いの2年後(1562年)に数正の努力が実り、
今後20年間信長の死まで続く清洲同盟がようやく正式成立へこぎつけた…と。

(信長との交渉役はその後(長篠の戦いの辺りからか??)、
酒井忠次に受け継がれた模様)

この同盟から家康の三河・遠江攻略が本格的に進み、
1564(永禄7)年には三河を平定。
家康は、東三河には酒井忠次、西三河には数正の叔父:石川家成、
後に石川数正を旗頭に据えた。
徳川家中では忠次、数正は「両家老」と称される重臣となっていったそうな。


また数正は武将としても優れていたらしい。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いに従軍、
1570(元亀元)年、姉川の戦いでは信長方として浅井に対抗、第一軍を率いた。
1573(元亀3)年、三方原の戦いに参陣(徳川は武田信玄に惨敗)、
1575(天正3)年、武田勝頼との長篠の戦いでは鳥居元忠と空堀や馬防柵も作り、
目覚ましい働きをして味方の勝利に大きく貢献した…と。
そういう時代だったと言えばそれまでですが、
もうホント連戦に継ぐ連戦…文字通り席の暖まる暇も無いですね。
この頃の徳川軍は寡兵、劣勢、長丁場…、
ホントに苦労は一肩ならぬものがあったでしょう。


一方、
このような流れの間に更に1564(永禄7)年三河一向一揆が勃発。
忠君厚いはずの三河武士も徳川家中の半数が離反、家康と干戈を交える事になった。

数正の出た石川氏も三河一向一揆の中心:本證寺の門徒であったため、
数正の父:康正は一向宗側についた。
しかしながら、叔父:家成と数正は家康への忠義を通し、
これに感じ入った家康は家成に石川家の家督を継がせ、戦後、数正を家老にしている。
(因に、家成は実は家康の従兄妹。
家康の実母:於大の方の妹が家成の母(於大とこの母が水野忠政の娘)


そしてそして…数正の人生で恐らく最大の悲劇が訪れる。

天正7年(1579年)、
徳川家による築山殿の殺害と松平信康の自刃。


幼い家康の人質生活に近侍し、
誰よりも主君の艱難辛苦を知っているはずの数正が、
一方で、己の力を精一杯使って救い出したはずの御方様(築山殿)と信康の、
こんな形での死に直面するって…。
しかも、織田信長との清洲同盟を取り持ったのも自分……。

当事者全てを身近で見ていた数正の胸中に去来したのは、
一体どんな思いだったのでしょう…。

そして、
築山殿と信康亡き後、岡崎城の城代を任されたのも…実は石川数正なのです。

ドラマでも描かれましたが、きっと実際も岡崎城中は混乱したと思います。
だから家康は数正を信頼していたからこそ、この時この大役を任せていた…と。
やはりここまで、数正は徳川家のもの凄い重臣ですね。


更に1582(天正10)年、本能寺の変の直後、
名高い「家康の伊賀越え」にも数正は同行していて、
井伊直政や本多忠勝らと共に主君の何度目かの窮地を守りきった。

しかしこのような状況により、
家康は主君(と言える)信長の弔い合戦に遅れを取り、
その後継者決定の場(清洲会議)への参加もできず、
もっぱら地歩固め(三河、遠江、駿河に加えて甲斐、信濃を治める)に
徹さざるを得なくなる。

しかし、
賤ヶ岳の戦いで秀吉と柴田勝家が雌雄を決する前に、
家康はどうも秀吉勝利が濃厚と見て、彼と本格的に誼を通じる事を決め、
書状をやり取りして互いに状況を伝え合った。
そして戦後家康は、柴田勝家を破った秀吉へ、
戦勝祝いの文と名品:初花肩衝(初花のこつぼ/漢作唐物肩衝き茶入れ)を
贈ったそうな。

そしてこの時の使者も…石川伯耆守数正なのです。

で、
秀吉と上手くやって行けそうに見えた局面も束の間、両雄並び立たず…、
とうとう…1584(天正12)年、
小牧・長久手の戦いで家康と秀吉は直接対決へ…。
この経緯はなかなか興味深いのですが…ここでは割愛(別項にて)。

よく言われるように、この時は事実上家康の勝利だったのです。
この時が唯一、若き秀吉を叩き潰すチャンスだったとも言えるのですが、
秀吉の頭脳的交渉術、駆け引きに負け、
家康はその後、秀吉の麾下に属する形となって行く…。

そして停戦の二三ヶ月前から、この講和の動きは出ていたそうなので、
この時も数正が水面下で尽力していたと思われます。
事実、戦後、徳川家康の使者として豊臣秀吉と数正との会見も行われたそうな。


そして……ついにそれは起きた。


1585(天正13)年11月、家康が、
うるさ型の謀将:真田昌幸との第一次上田合戦を繰り広げ、勝てなかった直後、
突如として数正は妻子とともに、岡崎を、徳川家を出奔してしまう。

いやあ…本当に「何故」!。
何故なんだ数正!!!。


これには様々な説が入り乱れておりまして。

1)徳川家に居場所がなくなった説
秀吉との交渉窓口になっていた数正。
その実力に接したせいか、秀吉との融和論者だった彼は、
浜松城の会議で強硬論派に囲まれ孤立、
更に「数正は秀吉に通じた」という噂が徳川家中で流れ、
徳川に留まれなくなったのでは…という。
秀吉側がこのような噂を流した…なんて説さえあるようですね。

2)秀吉に誘われた説
秀吉は代々武家で無いので子飼の武将がそんなに居ない。
天下取りのために強固な家臣団を望んでいたので、
他家にも多方面にヘッドハンティングを繰り返していたのは有名な話。
当然、有能な数正へも…?!。

まあでも、この1も2も…根本は同じですね。
数正が結局、秀吉に取られた…という見解かと。

そして遠因として、
3)信康自刃事件の影響説
やはり信康のあの事件が数正の心に傷を残し続けた…という説。
数正は若き信康の後見人でもあったし、
あの場で果たして彼の意見が少しでも聞いて貰えたのかと想像すると、
それはもう寧ろ、余地など全く無かったのではないか。
(酒井忠次と家康で決まった感があるし)

主君である信康を失った岡崎衆の立場が弱くなったとする話も。
数正の立つ瀬も結局無かった…という事なのだろうか。
大河ドラマ的に言うと…、
「(信康様を守れなかった)生き恥を晒して生きる事も、
もはやこれまで」と決意した…という展開も…ありなのか。

でも、ここに来て、こんな風に心が折れたとしたら…、
やはり「数正は秀吉についた」と言われたと仮定すれば、
それが引き金となってこうなった…かもしれませんね…。


あとね、小説だとこういうのもあるらしいw。
4)家康が秀吉に放った間者説
わはははははは。
数正をスパイとして送り込んだと!!。
面白くて好きだ!!…けど、
これは山岡荘八の小説ネタですwww。

で、
最後に個人的にはもう一つ妄想してみました。

5)天下取り実現を早く見たかった説(あくまで私的妄想w)
家康はこの頃42〜3歳。
だとすると…数正はそれより年長だから完全にアラフィフですよね。
人間50年と言われた時代…このままだと、
数正は天下が治まった時代を見ずして死んでしまう可能性も。

見て来たように、
彼は若い頃から家康と共に、本当に苦労したと思うし、
要として難しい役割をやり通したと思うんですよね。
それも何度も。
三河武士の中では(と言ったら他の人に失礼だけどw)頭脳派だし、
だからこそ知恵者である家康を信じてついていった(譜代だし)と思うんだけど、
でもそこに…やり手の秀吉がデッカく立ちはだかった。
それを見たら…もう俺の働く場所、こっちにした方がいいかもと思ったり…、
しなかったかなあ…。

いや寧ろ、
天下が定まるかどうかなんて事も考えられない程、
戦国時代は続いていたし(明日は見えないし)、
皆やる気満々だったのだろうけど、
知性派の数正は色々見過ぎちゃって…こんな選択になったとは言えないだろうか。
待っていられなかった…とか…そんな事は無いでしょうか?。
妄想が脳内で炸裂しておりますw…。


一方、
去られた徳川家には大衝撃が走った事は言うまでも無い。

なにしろ中枢幹部が、
企業秘密をごっそり抱いて、ライバル会社に走ったようなもの。
第一次上田合戦も早々に切り上げ、事態収拾をはかり、
徳川は先祖伝来の軍法を捨てざるを得なくなり、
一挙に武田流に変えていった…。

1586(天正14)年には、数正は和泉国十四万石を与えられ、
秀吉の九州征伐に従った後、小田原の陣にも出陣。

そしてなんと、
1590(天正18)年、信濃国松本城に八万石の城主として入ったと。

そうなんです、
現存天守の中で一番古いあの美しい松本城、
一般的には、
その城主にして松本藩初代藩主が石川数正という認識らしい。

その後、
1593(文禄2)年(異説では92年より前)、
唐入りのために肥前:名護屋城へ行き、病没した…そうな。

九州や小田原の戦役、
松本城主…と結構華々しい逸話が残りそうな所だけど、
出奔以来の数正については、伝わっているものが少ないんですよね。

豊臣に鞍替えしてから7年後に亡くなっているので、
この年月では数正の豊臣での活躍の時間は無かったのかもしれないけど、
このような大物の移籍は…取り扱いにはやはり色々と差し障りもあったのかも。
更に徳川の世の中になってから、
数正の出奔以降の実績は敢えて評価されなかったのかも。

いずれにしても…、
石川数正の人生は長い間(多分に孤独な)戦いだったように感じます。
そこを生き抜いた事、そこに骨太い三河武士の魂を感じる人でございます。



☆参考書籍☆

「戦国武将 合戦辞典」峰岸純夫・片桐昭彦著 吉川弘文館
「戦国人名事典」新人物往来社
「定本 徳川家康」本多隆成 吉川弘文館
「秀吉の天下統一戦争」小和田哲男 吉川弘文館
「東海の戦国史」小和田哲男 ミネルヴァ書房
「長野の山城 ベスト50を歩く」河西克造・三島正之・中井均編 サンライズ出版
「週刊名城をゆく 松本城」 小学館(ムック)
他…いろいろ
posted by 夏草 at 17:45| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

毛利勝永、ここにあり! 4 〜大一番!大坂の陣〜

毛利勝永シリーズ、
年を跨ぎましたが…とうとう大坂の陣でございます。


毛利勝永は、
年代から言っても…秀次、そして秀頼と、
次の豊臣家を支えて行く家臣団の一人として、
秀吉に期待され育てられていたんだろうと思うのですが、
九州平定の後、文禄・慶長の役があり、
そしてその秀吉がこの世を去ると…一つの時代も終焉に向かいます。

父:毛利勝信(=森吉成)と勝永は西軍だったために改易、
その身上は山内家に預かりという事になります。
何故山内家だったのか…という所、
勝永の家と山内家が昵懇(大坂屋敷が隣り合っていたという説もあり)で、
そもそもは関ヶ原の戦いの際、
石田三成が各家から人質を取ろうとした時に、
勝永が山内夫人を守った…という経緯があり、
山内家はそれを感謝していたのでは?と今福さんは書いています。

そして勝信(吉成)も亡くなり、勝永は大坂を目指す事に…。


毛利勝永が大阪城入りしたのは開戦ぎりぎりというか、
慶長(1614)年の11月に入ってかららしい。
(前哨戦/木津川口の戦いは11月19日前後から始まっている)。


そして…とうとう大坂冬の陣。

御存知の通り、
真田信繁が真田丸で大奮戦だったわけですが、
勝永は「大阪城西北、今橋付近の守備」という記載があるものの、
ここで特別戦闘があったという記録は無いらしい。


ここでちょっと気になったのは、
勝永がもしここに居たなら…ほぼ対峙した徳川方武将というのが、
石川忠総、池田忠継、森忠政、そして…鍋島勝茂だったという点です。
なにしろ勝永は龍造寺家の娘婿だし、
その時代前後から鍋島家と(前回まで書いたように)
勝永父子は色々と繋がりがあるし、
そもそも鍋島勝茂は山内忠義に対して、
「(山内家に預かりとなった時点で)勝永をくれぐれも頼む」と言っているらしい。
で、
勝永はどうも…鍋島家を含む徳川勢と、
睨み合った感じ(小競り合いあり?)で終戦した…とも言えるのかも。                                                                     
どうなんでしょう、コレは…「鍋島家を知ってるからこそ」、
この方面の守備を勝永が買って出たのか、
それともその逆で、
大阪城内の政治的なブレインであった直臣達
(大野治長、木村重成、薄田兼相など)から、
「知っているからこそ」回されたのか?…。
それともそれとも…全くの偶然か。


(因に、
石川忠総は、大久保忠隣と石川数正の叔父:石川家成の娘の間の次男で、
家成の後を継いで石川姓となり冬の陣に参加。
薄田兼相の守備下にあった伯労ヶ淵を落とす武功をあげた。
池田忠継は、池田輝政と督姫(徳川家康次女)の間の息子で、冬の陣に参加。
森忠政は…こちらをどうぞ☆↓。)
『血風!!森一族10 〜森家の血〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/173574858.html


そして…とうとう大坂夏の陣へ…。

慶長20(1615)年5月6日、名高い道明寺口の決戦です。

「道明寺口へは、まず後藤又兵衛隊が進み、
真田信繁と毛利勝永が合流するという作戦だったが、
濃霧の為に二つの隊の到着が遅れ、又兵衛が先攻して破れた」
という解釈が現在は主流のようです。
この時、
「又兵衛は気が逸っていて、二隊の合流を待てずに先走った」
という分析もあるのですが、
しかし、
そもそもこの道明寺口の作戦は、後藤又兵衛の提案に依るものらしい。


その前に起こった樫井での戦いでの、
塙直之(団右衛門)などの討死により、
今後はより大坂城近くでの戦闘が予想される中、
豊臣方に対し、徳川方兵力が圧倒的な差がある上、
野戦の名手として名高い徳川家康と平地での合戦が不利と判断し、
徳川軍が大阪城の前の平地に出る前、
丘陵がある狭隘な地形を利用しての迎撃戦を又兵衛は考えた…と。


でも実際は、
カブキ者で有名な「鬼日向」こと水野勝成の侵攻が豊臣勢の予想より早く、
(水野勝成も…いろいろあった猛者ですよね…)
これをを見た又兵衛が次善の策として、
有利な高所である小松山に上ったらしい。

で、
勝成がこれに仕掛けて早朝から戦端が開かれ、
又兵衛を小松山に孤立させる事に逆に成功した。
そして、下山して来た又兵衛を、
伊達政宗隊の先鋒:片倉小十郎重長(二代目小十郎)が討ち取った…と。
その後同日、薄田兼相も奮戦したものの敵の前に倒れた。

で、毛利勝永は…というと、
夜明けに天王寺を出立して藤井寺に着いた頃には、
又兵衛と兼相の敗兵が既に退却して来ており、これを収容している。
そして、午前11時頃に真田信繁と合流し、戦線を立て直したらしい。

この後、
有名な真田VS.伊達の激闘が繰り広げられたが、
伊達方で、
早朝からの戦闘で疲弊した片倉隊と二番手奥山兼清隊を入れ替えようという所、
真田隊にその隙を突かれ、
誉田から道明寺口辺まで…という、かなりの後退を余儀なくされたらしい。
結局最終的には、真田勢も体勢の立て直しのため一端城へ引いた…と。

因にこの時、
例の真田信繁の「関東に男は一人もおらん」発言があったらしい。

これについてもうちょっと見てみると、
真田隊には大野治長隊も加勢に現れたが、
豊臣方の河内方面での木村重成・長宗我部盛親の敗北が伝わり、
それによっての孤立を回避するため、退却命令が出た…という事らしい。
一方の伊達勢も、
(大河ドラマ『真田丸』では、伊達政宗は真田信繁の男気に感じ入って、
これを追わなかった…的な感じに演出されていたと思うんだけど)、
政宗の婿:松平忠輝隊の合流などもあって戦力がかなり回復したものの、
徳川への忠節はもう十分示したのだから、
これ以上自軍を疲弊させる事は無いとの政宗の考えがあったとする説や、
そもそも「信繁挑発からの待ち伏せ=真田お家芸戦術」の可能性もあるし、
追撃を中止する判断が取られた…という感じもあるかも。
(諸説ありますが、自分としてはこの辺りかな…と思います)


そしてそして、
肝心の毛利勝永は戦場に着いてどうなっていたのか?。

真田隊は上記のように、誉田〜道明寺口の辺りでの戦闘だったらしいけど、
この日は藤井寺の方まで戦乱は広がっていたらしいので、
(徳川方は主に誉田〜道明寺への展開、
豊臣方は誉田の西〜藤井寺への展開)
勝永は…結局この日一杯は藤井寺近辺だったのかも。
(藤井寺って道明寺口よりも大阪城に近いですよね)

で…この日の豊臣方殿(しんがり)なのですが。
殿って御存知のように決死隊です。
味方を逃れさすために捨て石になる事も多々ある。
それだけに誉でもあるけど…尋常じゃない大変さだと思われ。

勿論「関東に男は一人もおらんと言った真田信繁が」というのも見るのですが、
「毛利勝永が」という説もあるので、このブログではそっちを見てみます。

豊臣方は勝永陣所で喧々諤々の議論の末(武士の意地から誰も譲らなかったそうな)
明石全登の仲裁で毛利勝永の鉄砲隊が殿に決定し、
午後4時頃から、周辺民家に放火の上退却……切迫した感じですね。
(『関ヶ原合戦と大坂の陣』笠谷和比古)


そして運命の…5月7日〜8日。


この日の豊臣方の作戦は、
大野治長・毛利勝永・真田信繁の三者会談で決まっていた。

「毛利勝永は天王寺口南門に布陣、
茶臼山方面に陣取った真田信繁・渡辺糺と連携し、
徳川本隊を天王寺付近に引きつけ、
船場から迂回して敵の背後を突いて徳川を挟撃」というもの。
これは全軍に周知されていたらしい。

前日の流れからの両軍陣取り等から考えて、
徳川方も「天王寺・岡山方面が最終決戦地」と見ていたらしく、
豊臣方とすれば、
地形的に徳川軍を狭隘な地形に連れ込んで挟み撃ちにする、
この「茶臼山と天王寺周辺」
という策が一番いける作戦だったらしいのです。

更に、
この茶臼山なんですが…ここね、
大坂冬の陣の時、徳川家康の本陣だったらしいんですよ。
それを改造して信繁は本陣としたと。
個人的には……やるな!流石は真田!!ですw。


しかし。
戦端は豊臣方の思惑を大きく逸脱して開かれてしまいます。

当時の合戦も流石に、
「さあ!今から始めよう!」と、かけ声的なものがあるわけは無く、
なんか不意にドンパチ小競り合いが始まった…という所から、
戦の火ぶたが切られるらしいのですが、
それでも、
両軍とも「満を持して」とは行かないまでも、
そこそこ隊を配備して「自軍に有利な戦い」をしたいですよね。

でもやっぱり戦の恐ろしい所は決してそうはいかない所。
今回も…乱数要素が発動したというかなんというか、
事の起こりは…徳川方です。

天王寺方面の先鋒大将は本多忠朝。
アノ!本多忠勝さんの次男で、
関ヶ原でも武功を上げた父譲りの勇者なのです。
この人の隊が天王寺口に深入りし、
豊臣方の兵がだんだんと配置に着いて行くのを目前にして、
しびれを切らし、正午頃射撃を始めたそうな。

徳川方ももう少し慎重に事を運びたかったらしい。
(なので正午まで動きが無かった…と)
そして豊臣方も、当初の作戦を成功させるため、
「十分に徳川軍を引きつけ深入りさせてからの攻撃」を狙っていたのに、
毛利隊が本多隊の攻撃に応戦してしまった…と。
これには信繁からの応戦中止の伝令が入り、
勝永自身も攻撃中止の命令を出すも…、
もう始まってしまったものは止めようが無く。

ここに至り、勝永は作戦変更、
まず本多隊を引きつけて、足軽鉄砲隊の射撃を浴びせ、
本隊で突入し敵を壊乱した(この戦乱で本多忠朝は戦死)。

これと同時に、自軍の左右部隊を展開。
右翼隊(息子:毛利勝家など)を秋田実季・浅野長重隊に、
左翼隊(浅井井頼・武田永翁など)を真田信之の息子兄弟:信吉・信政に、
対抗させたらしい。

結果、
毛利勝家隊などに秋田実季・浅野長重隊は撃破され敗走、
真田信之の息子達は奮戦したものの、
家臣が楯になって主君を敗走させる程の苦戦となった…と。

そして、
武田永翁隊は徳川方:小笠原秀政隊に破れ、
大野治長隊がこれを押し止めようとしていた所に怒濤の毛利隊が加わり、
秀政は負傷の末死去、小笠原家の長男:忠脩(ただなが)も討死、
次男:忠真も負傷、小笠原隊も壊乱した。

毛利本隊はその頃、榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒隊を撃破、
その後ろの酒井家次・相馬利胤・松平忠良隊なども総崩れ、敗走させたらしい。

まさに破竹の勢いで彼は…というか、
彼が!徳川家康の本陣に突入していった!…という事で。

でも「日本一の兵」と後年言われたのは、
真田信繁ですよね。

この時に信繁はどうなっていたか…というと。
実は彼はちょっと毛利の動きを見ていたらしい。
(元々アノ軍略家の次男だから、猪突猛進型じゃないですしね)
で、毛利勢の大善戦が徳川本陣を混乱に陥れたのを見て、
好機と見るや徳川へ迫るべく、
茶臼山下に押し寄せていた松平忠直隊に突進して行った…と。

この後、
「家康に死を覚悟させた」と言われる徳川旗本本陣での乱戦、
という展開になるようなのですが、
それでも毛利隊・真田隊は三回の突撃を交わされ、
藤堂高虎隊や井伊直孝隊などの到着援護もあり、
徳川家康の危機は去った…と。
(この辺の対決の時系列、研究者によって多少ニュアンスが違います。
結局「誰がどのタイミングで」等の所は、
ただでさえ戦争だし過去の事だし…やはり正確には把握しにくいと思われ)

そして死闘の末、真田信繁は、
とうとうその忠直隊の越前藩の武士に討ち取られる事に…。


茶臼山が取られ、真田隊の壊滅を見るや…
毛利勝永は戦線からの撤退を決行。
途中、
明石全登隊(当初の作戦は不発に終わった)に助けられ大阪城へ帰還。

夕方4時頃から大阪城が炎上、大坂方の敗色が決定的となり、
翌8日、勝永は城内に於いて、主君:豊臣秀頼の介錯をし、
自身そして息子:勝家も共に自刃。
勝永は享年37(38)歳とも伝えられています。


家康の首級を狙って、
一点突破の大逆転に賭けて果てた真田信繁とは対照的に、
毛利勝永は状況をそれでもかなり客観的に判断し、
城へ戻り、主君と命運を共にしたのか…と、個人的には思っていたのですが、
異説では、秀吉の介錯をしたのは、
「豊臣七手組衆の一人:速水守久」というものもあり。

速水守久は、
元々秀吉の近侍組頭「七手組」の一人で、
小牧・長久手の戦いにはもう出陣していたという古参の直参家臣。
なので、秀頼にも本当に近いですよね。
大阪城落城の時、直ちに自刃しようとする秀頼を諌め、
天守下の土蔵(二ノ丸帯曲輪の異説あり)に入ったらしい。
(この辺の逸話は生々しい感じがします。
なので、秀頼の介錯は…速水守久かもしれませんね…)

この間大野治長が、
秀頼室で家康の孫:千姫を帰し、秀頼の助命嘆願をしたが許されず、
そして…秀頼以下、淀殿、大蔵卿の局、大野治長、速水守久を含む、
32人が自害し…豊臣家はここに滅亡した…。


もしも、
毛利&真田の作戦が上手く運んでいだら…という意見も聞く事があるのですが、
以前に見た爆笑問題のTV番組で、防衛大学で戦略を教える教官が言ってました。
「実際の戦争に於いて、作戦計画は殆ど意味が無い。
実際の戦争は時間とともに計画が崩れていくばかりで、それに対応するのが肝だ」と。

そういう意味では、
寄せ集めの軍隊と言われる豊臣方は、転変する局面に良く対応し、
果敢に攻めていったと思います。
しかし同時に「大坂の陣」という戦いは「関ヶ原」に比べて、
恐ろしく「力押ししかない戦だった」と書いている歴史家も居ます。
戦力の質と量に決定的な違いがあった…という事を言っているのですね。

そういう事も考えながら、
もう一度原点に立ち返って見ると…、
毛利勝永は…どんな動機で大坂の陣に出陣したのでしょうか。

豊臣秀頼に現役の大名が一人もつかなかったという結果を、
彼は読めなかったのかもしれませんが、
妻への逸話のように「毛利勝永の家を再興する」という事を、
ずっと長く胸に秘めて…その先の大阪の役だったのかもしれません。

最期まで将来に望みを持ち、
死力を尽くして突き進んだ生命に対し、
自分は…ただただ合掌でございます…。


☆参考にしたもの☆

『真田より活躍した男 毛利勝永』(今福匡 宮帯出版社)
『信長・秀吉と家臣たち』(谷口克弘 学研新書)
『関ヶ原合戦と大坂の陣』(笠谷和比古 吉川弘文館)
『戦国武将 合戦事典』(吉川弘文館)
『戦国人名事典』(新人物往来社)
『地図で知る戦国 下巻』(武揚堂)
『歴史群像 デジタルアーカイブ 小和田哲男選集5』(学研 小和田哲男)
『時空旅人/大坂冬の陣夏の陣400年』(ムック 三栄書房)

他、
小和田哲男先生の本…色々と。
例によって、
当グログが「腐」なのでリンク貼るとかご迷惑なのでできない、
某超有名歴史サイト様


☆関連事項☆

『毛利勝永、ここにあり! 1 〜いざ!大坂城へ〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/437705438.html

『毛利勝永、ここにあり! 2 〜毛利勝永って…実は通称?〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445161745.html

『毛利勝永、ここにあり! 3 〜龍造寺&鍋島と〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445362485.html
posted by 夏草 at 19:23| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

毛利勝永、ここにあり! 3 〜龍造寺&鍋島と〜

さて…今年も押し詰まって参りましたが!、
毛利勝永第三回でございます。

ついに大坂の陣の話に辿り着いた!……着きたい所ですが(ぇ、
それに至る経緯にちょっと触れてみたいと。
特に、
後に勝永軍が対峙したとされる鍋島家との縁を、
そして九州との縁を少し見てみたいと思います。


前回ちょっと出ましたが、
毛利勝永の室は龍造寺政家の娘なのですね。

龍造寺といえば…九州の勇であり、
政家の父:竜造寺隆信がとっても有名で、
御存知の通り、
この龍造寺家と鍋島家も切っても斬れない縁ですよね。

毛利勝永の家と龍造寺家との繋がりの発端はというと、
勝永の父:森吉成(毛利勝信)が秀吉の奉行として九州攻めに参加し、
(秀吉本隊所属の一番隊だったらしい)戦功をあげている所から。
その中で、香春岳(かわらだけ)城を秋月氏から接収するという時、
龍造寺家と一緒に仕事をしているらしい。
で、吉成はその他功績を認められ所領を得、小倉城に入っていると。

因に、
この頃の勝永はまだ10歳前後の少年期。
彼の様子が、安岐毛利家の文書に次のように残っているらしい。

天正16(1588)年、
毛利輝元は秀吉に臣従の意を示すために大坂入りした。
(輝元は元々秀吉の命で四国攻め、九州攻めにも従軍しているので、
臣従自体はもっと早いものだったのだけど、
これが正式で大きい区切りだったらしい)
で、
森吉成の屋敷に招かれ「お能」で、もてなされているらしい。
ここで勝永が!太鼓を叩いているという…。

太鼓!。
自分も少しだけ能管をやるのですが、太鼓難しいです。
(囃子方の太鼓、大鼓、小鼓、能管、どれも難しいには違い無いんですが)
能の「序破急」という調子をどう持って行くのかについて、
太鼓の力ってとても大事で、
音自体も上手が打つと…とてつもなく良い音なんですよね。

まして…毛利家のような大家をもてなす舞台なんて、
少なくてもちゃんとある程度の技量をマスターしていないとつとまらないと思う。
でもまだこの時の勝永は11歳くらいとか!。
そして更にこの後日、輝元一行は飛鳥井雅春の蹴鞠の会に招かれ、
(飛鳥井家は和歌や蹴鞠の家らしい)
この時吉成・勝永父子も相伴してる…と。

能の太鼓に蹴鞠(もしかして和歌も)…。
勝永はつまり、もの凄くちゃんとした教育を受けていた…という事ですよね。
どうも父:吉成も「茶人」としての認知度が高かったらしいので、
この父子は想像以上に風流の道も嗜んだのかもしれません。

でもね、そうなんですよね。
「戦国時代」という呼称からか、
ついつい「戦に強い人が上位」っていうような印象が強いと思うんですが、
実は当時の「ちゃんとした人」っていう定義には、
和漢の才や茶の湯、能楽といった教養は不可欠だったと思われ。
武の道と並んでこれがあって、
「アイツはひとかどの人物=立派だ」となるんで…、
森吉成、毛利勝永父子だってそういう側面が無いと、
ましてやバックはあの秀吉なのだから、
こんな出世とかしないんだろうな…と思いました。


そして。
父子はその後、唐入りに参陣し、太閤の死を迎え、
関ヶ原へ大坂の陣へと進んで行きます…。


そんな中、
鍋島さん家との繋がりについてですが…。

九州攻めで仕事を一緒にした龍造寺家と森吉成。
そして、九州勢の懐柔策の側面もあったようで、
勝永は龍造寺政家の娘を室に貰ったと。

天正15(1587)年、政家が当主であった頃には既に、
龍造寺家の「仁王門」と言われた鍋島直茂は秀吉の直臣になっており、
且つ、実質的に龍造寺家の執政をしていたそうな。

その後、
九州平定に伴って起こった肥後国人一揆の鎮圧に、
佐々成政が失敗し、責任を取って切腹となるのですが、
この平定には、
最初の頃から秀吉の命で森吉成も加わっていて、
最終的に謀反の首謀者達を小倉で成敗したりしているらしい。

そして、
天正16(1588)年には鍋島直茂は長崎代官になり、
高来郡深堀の深堀純賢が秀吉によって追放され、
森吉成とともにその後の代官にも任じられたそうな。

天正18(1590)年、
一度政家の息子:高房が家督を継いだが、
(高房は勝永の室の兄弟ですよね)
直茂の孫娘と縁組の後、高房が鍋島の支配強化に反発し、
(これは秀吉が直茂の方を重用していた事に起因するようで)
この室を殺害し自分も自刃するという事件を経て、
同年、直茂の子:勝茂が、
龍造寺家に変わって当主として秀吉に認知されるに至っている…と。


で、
こういう龍造寺家と鍋島家の関係って、
どうやったら分かり易くなるかな〜と、
ちょっと現代敵な喩えを考えてみたんですけども…。

九州で頭角を現した龍造寺という企業があった。
そこへ中央から豊臣という大きな同業者が九州に乗り込んで来て、
龍造寺家はその傘下に入って一種子会社となった。
しかし、
二代目社長の龍造寺政家が病弱だったり本社社長と合わず、
龍造寺家の経営が不安定になってしまった。
そこで、本社社長が人事を刷新し、
龍造寺の副社長:鍋島直茂を本社採用とし、龍造寺の経営を事実上任せたが、
次の新社長:高房の不満が高く、突然退社してしまったので、
鍋島勝茂(実質直茂)にあらためて社長職を継がせる事になった…と。

う〜ん…微妙な感じも無いわけじゃないけど…(^^;、
一応こんな感じでまとめておきますw。


さて!、
次回はやっとの事で!大坂の陣でございます!!。


☆今回参考にしたもの☆

『真田より活躍した男 毛利勝永』(今福匡 宮帯出版社)
『信長・秀吉と家臣たち』(谷口克弘 学研新書)
『秀吉家臣団の内幕』(滝沢弘康 ソフトバンク新書)
『羽柴を名乗った人々』(黒田基樹 角川叢書)
『鍋島直茂』(岩松要輔 夷光祥出版)
『時空旅人/大坂冬の陣夏の陣400年』(ムック 三栄書房)

他、
小和田哲男先生の本…色々と。
例によって、
当グログが「腐」なのでリンク貼るとかご迷惑なのでできない、
某超有名歴史サイト様



☆関連事項☆

『毛利勝永、ここにあり! 1 〜いざ!大坂城へ〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/437705438.html

『毛利勝永、ここにあり! 2 〜毛利勝永って…実は通称?〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445161745.html

『毛利勝永、ここにあり! 4 〜大一番!大坂の陣〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445713893.html
posted by 夏草 at 00:45| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする