2016年01月21日

戦国 山の国物語8 〜ここにも黄金伝説!〜 

帰雲城という謎めいたお城。
色々調べてはみるものの…ホントに史料や本も無い。

そんな中、賀来耕三さんが、
『消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏』という本を書いているのを発見。
読んでみたら…、


ええー?「帰雲城に埋蔵金」???。


またまた〜〜〜「埋蔵金伝説」ですか…^^;、
何かといえば「埋蔵金」…滅亡と埋蔵金はセットか!!www。

と、ちょっと思いましたが、

いやいや…ホントに寧ろ逆で、
「帰雲城は埋蔵金伝説で有名」なみたいですね!…ビックリ。

それというのも、
内ヶ島氏の飛騨白川郷って、色々と鉱山があるようなんですよ。
まあ日本の山には鉱山が結構あるけど。

そして、
内ヶ島為氏が将軍義政の命で飛騨に入ったのは、
室町幕府の財源確保のため(鉱山奉行職として)であった
という説もある事を知りまして。


そういえば。

飛騨国って「下下の国/げげのくに」とまで言われていた時代もあり、
その意味は「土地が痩せていて穀物などが採れない」って事ですよね。

ちょっと寄り道しますと。

日本の租税法…古くは「租庸調」がある訳ですが、
「大宝律令」に「飛騨一国のみ」に適応されていた条文があると。
(実際は「大宝律令」の原文は散逸していて、
その改良版で、現存している「養老律令」に見られるらしい)

飛騨国は、通常取り立てられる税の「庸」「調」の代わりに、
「匠丁(しょうてい/木工の技術者)」、
「厮丁(しちょう/匠丁の食事の世話をする)」を出せと。

もの凄く簡単に言うと「庸」は労働納税、
(京で労役をする事。後の時代には米、布などを対価とした)
「調」は繊維製品納税(後には地方特産品などで対価とした)

…という事なのですが、
飛騨地方はそもそも山がちで大きな平地も無く、
(その代わり林産資源は豊富だったが)
農耕が営みにくかった結果、
「庸」「調」が免除されて「匠丁」「厮丁」を…となったらしい。

更に7、8世紀には、飛騨には既に立派な木造建築物があったらしく、
そこへ中央政府も目をつけ技術者達を召還したと。
なので、平城京や平安京、そして石山寺の建立には、
飛騨匠丁の力が発揮されていたそうです。

(しかしこの労役は苦労や負担が多く(食料などは自前)、
労働期間が終了しても、次の場所で続けて働かなくてはならないなど、
良い待遇とは決して言えないものだったらしい。
それで逃亡者なども多数出てしまい、飛騨には若者が減って
荒れてしまったという説もあります)


話をもどしますと…。


大工さん的なハイレベルな技術者が多いとはいえ、
土地柄自体はこんな感じなのに…、
では何故「飛騨は幕府の御料所(直轄地)」なのか。

意外とね…それってホントに白川郷を含む地方が、
金・銀・銅の鉱物資源に恵まれた鉱産地帯だったから?。
だから幕府の奉公衆が直に統治するようになったの?。


それを裏付ける説として…、

「内ケ島氏から献上の砂金で足利義政は銀閣寺を建立した」
という話もあるそうなんですよ!。

…って事はさ、
内ヶ島氏が鉱山奉行として採掘した金は実際あったって事なの?。
だとすると…「埋蔵金」本当にある……???(わははははは。
でも帰雲城の場合、
地震で埋もれた訳だから…「埋蔵金」ならぬ「埋没金」だよね、
(賀来さんもそう書いてた)


…しかし、ここまで書いて…更に疑問が。

この当時ってまだ、
鉱山発掘技術ってそんなに発展してなかったんじゃなかったっけ?と。
確かもうちょっと後だよね、石見銀山とか佐渡金山とか、
採掘やら精製の技術が確率されるのって。
そんなに大量に採れてたのかな???。

賀来さんの本にもそこは言及してて、
曰く「16世紀以前の産金は主に砂金採取だった」と。

砂金?砂金採取って…あれですよね、川に入ってすくうやつ?w、
もっと効率上げるなら、
金が出るとアタリをつけた所を掘る、砂礫から砂金を採取…と。
うーんこれって…確かに金は採れるけど…まだまだ全然効率悪いですよね。
しかもそんなに量採れるとは思えない。
黄金伝説っていうくらいに貯め込むには相当な時間か労役人数が必要じゃない?。


…と見てたら。
おおーーー小和田哲男さんの本にこんな事が出てたよ!。

16世紀の半ばまでは、確かに砂金などを「川ですくって」採っていたが、
これは特に技術を必要としない、誰でもできる方法だったと。

しかし、
1533(天文2)年、博多の豪商:神谷寿禎が、
進んだ精錬法を身につけた宗丹、桂寿という二人の精錬工を中国から招き、
石見銀山で銀の産出を始めた…というのです。

かの国からもたらされた先進的精錬術…それは「灰吹法」。

この方法はまず、
「山や土中から金鉱席を掘り出して粉にし、鉛と共に1200℃の高温で溶かす。
冷えてからこれを割ると…金だけが鉛と結びついた合金になっている。

そして、
鉄鍋の上に、動物の骨灰を皿状に敷き、そこに先の合金を乗せ、
灰吹炉という炉の中に並べて820℃で熱すると…、
鉛だけが溶けて骨灰にとけ込み、皿の上には金だけが残る…」という。
合金を炉に入れて熱する時に、ふいごで吹くから「灰吹法」なようです。

この方法は銀も同じだったらしく、結果、銀の生産量が飛躍的に上がり、
日本は(金というより寧ろ)銀の産出国として有名になったらしい。

これ以降、各地の金山・銀山は開発が急速に進み、
金堀り(金鉱石を掘り出す専業者)の集落ができる程だった…と。
そして各地の戦国大名によって、
金山・銀山の開発、産金・産銀が飛躍的に伸び
我が国の戦国時代はゴールドラッシュの時代と言われている……そうな。


と!いう事は…。

意外と意外と…
「内ヶ島氏が本当に足利義政に金を献上して銀閣寺が建った」というのはあり得る?、
「帰雲城と共に金が埋没」という事もあり得る?って事だろうかっ!!!。

いやいや…ちょっと待て、自分。

実は足利義政が銀閣寺(慈照寺)を建てたのって、灰吹法伝来よりやや早いんだよね。
(だいたい15世紀末から〜)
だから産金・産銀が大幅に増えた時期より微妙に早い。
という事は、たとえ内ヶ島氏の所で金が採れたとしても、
大量生産がまだそれほどじゃなかった時期に、
大量の金が蓄えられていたのか…は不明という事で。

それと…「銀閣寺に『金』が使われたのか?」と書いたのは、
あくまで「建設費に金が使われた」という意味です。
金閣寺が「金箔張り」なのに比べて、
銀閣寺は実は「銀箔貼って無かった」んですよね。
現在の姿は「銀箔が剥がれた」のではなくて「最初の黒漆塗りが剥がれた」状態と。
なので…内ヶ島氏の「金」は財源として使われた可能性があるのか?という事で。

というわけで…いろいろ妄想&想像してみましたが。

どうでしょう!!?、

果たして!!!、
内ヶ島氏の居城に大量の金が秘蔵されていたのか否か!。
それごと埋もれてしまったのか!!!。


うーん……やっぱり…全ては霧の向こう!。
でもいつかお城の場所が特定されたら…
黄金が再び日の目を見るって事もあるのかも…しれませんねw。

という事で…『戦国 山の国物語」飛騨の項は、ひとまずこれにて!。



☆付記☆
今日のソースは…、

「美濃飛騨の歴史がおもしろい/小川敏雄/岐阜新聞社」
「消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理/賀来耕三/メディアファクトリー」
「戦国の群像/小和田哲男/学研新書」

その他…からでした。


☆関連次項☆
『戦国 山の国物語1 〜飛騨高山と金森長近〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422833585.html

『戦国 山の国物語2 〜高山城〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422896777.html

『戦国 山の国物語3 〜高山の東山寺院群〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/429306219.html

『戦国 山の国物語4 〜姉小路頼綱とは〜 』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432385102.html

『戦国 山の国物語5 〜その後の姉小路頼綱〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432491895.html

『戦国 山の国物語6 〜飛騨の群雄割拠〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432572411.html

『戦国 山の国物語7 〜幻の帰雲城と内ヶ島氏〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432718407.html
posted by 夏草 at 17:52| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月18日

戦国 山の国物語7 〜幻の帰雲城と内ヶ島氏〜

飛騨の国の歴史シリーズ、
今日は…ついに帰雲城と内ヶ島氏です!。

帰雲城(かえりくもじょう/きうんじょう)

…それは大地震によって、
一夜にして消え去ったという数奇な運命の城。
そしてなにかとても…詩情を誘われる名前の城。

その最期の城主だったのが内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ/うじよし)。
彼もまた悲運の将と言えるかと。


内ヶ島氏の出自については…諸説あって、
それぞれ興味深いのですが…ここではちょっと割愛です。

で、内ヶ島季氏の代には足利義満の馬廻衆で、
信濃国に住んでいたらしい。
白川郷へ入った時期は15世紀半ばで、
将軍:足利義政の命で、幕府の奉公衆(直属の家臣)として、
内ヶ島為氏(うちがしまためうじ)が御料所を預かり、
(1449 〜1457年頃と1460〜65年頃と色々説あり)、
牧戸(現:大野郡白川村保木脇/おおのぐんしらかわむらほきわき)に、
城を築き、その後白川郷を独立的に支配したらしい。



そして、
内ヶ島氏と白川郷を語る上で外せない事柄があります。
それは浄土真宗と正蓮寺の話。

飛騨一帯で、
今でもとても有名な照蓮寺(旧名:正蓮寺)というお寺があるのですが、
その起源は13世紀頃。
1253(建長5)年、親鸞の教えを受けた嘉念坊善俊、
(かねんぼうぜんしゅん/後鳥羽上皇の子または孫説あり)が、
美濃国長滝(現:郡上市)から飛騨国白川郷鳩ヶ谷(現:大野郡白川村)に入り、
正蓮寺を建立し、ここを中心に飛騨国の浄土真宗は一大勢力となったらしい。

そして…200年後の15世紀の頃、
先にも書いた内ヶ島氏との関わりが出て来ます。

飛騨へ入った内ヶ島為氏は、民心を深く捉えた正蓮寺の力を危険視していたと。
正蓮寺側の僧:教信も還俗して三島将監(みしましょうげん)という武士になり、
武士を雇い入れるなどして武力を強化、
弟の明教(後の正蓮寺第九世)と共に内ヶ島氏に備えたそうな。

このころ以降、正蓮寺は、
加賀一向一揆などの北陸の一向一揆の際、
兵の派遣や協力を行っているらしいのです。

そうなんです…飛騨国にどとまらず、
北陸地方と浄土真宗は深い結び付きがありますね。
ここでちょっとその辺りを書いてみますと。


「百姓の持ちたる国」「門徒の持ちたる国」…、
御存知のように戦国期、北陸にはそう呼ばれた一向宗の国がありました。
領主支配ではなく一向宗門徒が自治する国という意味ですね。

一向宗とは浄土真宗の事ですが、
その流れは法然、親鸞、蓮如、実如…と続くもので。

北陸への第一歩は1471(文明3)年、
中興の祖:蓮如が越前の吉崎に道場を開いた事が発端で、
その後、勢力を増した門徒たちが、
越中(福光城:石黒光義)や、
加賀(高尾城:富樫政親)でそれぞれ領主を打ち破り、
(それぞれの地域は元々守護代や国衆に分割統治されていた)
北陸に自治国誕生となったそうな。
そして、年貢は石山本願寺へ集まっていく…。

(因に、
浄土真宗の側では自分たちを一向宗とは呼ばない、としているそうで、
蓮如も「政治と信仰は一線を画す」みたいな事を度々説いているようです。
というのも、
浄土真宗本体が政治に口出ししたと取られ、
信仰が否定される事を非常に恐れていたらしいのです。
(特に初期は。
後期になると自らの勢力を積極的に活かした所もあるかと)
しかし信徒の中には無法者に近いような様子も多々あり、
この辺の荒れ模様がやはり為政者と対立関係になって、
「百姓の持ちたる国」へと…。)


更に、
この経済力が、織田信長との戦いを支えていったらしい。
(この「石山本願寺との戦い」と聞くと、
もの凄い激しい戦乱を想像してしまうのですが、
確かに年月は10年くらいかかっているけども、
実際の大きなぶつかり合いは2回くらいなのだそうで、
小競り合いとかにらみ合いが主流だったという事ですね。
それでも兵糧とか武器とかにお金かかった事は間違いないけど)


そしてついに1488(長享2)年、
帰雲城城主:内ヶ島為氏により正蓮寺は焼き討ちにあい、
(異説として1475年、1485年あり)
三島将監は戦死、明教はかろうじて逃げ延びるが…最終的に自刃。

しかし、内ヶ島氏はその後も信者達を抑えきる事ができず、
正蓮寺第十世:明心(明教の子)と和睦する事で、領主として立つ方法を選んだと。
1501(文亀元)年、明心に娘を嫁がせ、
1504(永正元)年、飛騨国白川郷中野(現:高山市荘川町中野)に寺院を復興し、
「正蓮寺」から「光曜山照蓮寺」に改称したそうな。
そして内ヶ島氏は照蓮寺を通じ、本山本願寺と繋がって門徒にもなったらしい。
内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺も拡大したと。

その後の1520(永正17)年、
越後の長尾為景(謙信の父)が越中に侵攻して来たので、
本願寺:実如(蓮如の子)は、内ヶ島雅氏(氏為氏の子)を上洛させ、
越後の一向一揆衆支援を要請したそうな。

1539(天文8)年、雅氏は正蓮寺と三木氏(益田郡)と協力し、
郡上郡へ侵攻して、一向宗門徒の北陸への通路を確保したらしい。

そして1547(天文16)年、
内ヶ島氏理(うじまさ/うじよし)が、幼くして家督相続となる。
この頃の飛騨は、三木氏が勢力を伸ばして来ていたが、
三木氏も本願寺と通じていたので、
内ヶ島氏とは敵対関係では無かったらしい。
一方の姉小路氏は内紛によって力を落とし、
そこを三木氏に乗っ取られる事となる…。

では、
氏理の戦国時代はどんなものだったかというと。

1576(天正4)年には織田信長の麾下に属していたようで、
信長の命で越前へ出兵したと。
信長と組んだという事は、
どうも本願寺との同盟関係も終わったらしい。

因にその留守中に上杉勢に帰雲城を急襲され、
確かに落城はしたものの、
略奪にあっただけで城は取られなかった…などという事件も。

そして1578(天正6)年には、
本願寺派から織田方へ乗り換えていた事や、
上杉謙信が急死した影響もあったのか、
内ヶ島氏の越中:砺波(となみ)領でも一向一揆が起こっていると。


そしてそして。
1582(天正10)年の6月に本能寺の変が起き、
1585(天正13)年8月、秀吉の命で金森長近が飛騨侵攻。
この時はしかし、飛騨衆が同盟を結び、抵抗は甚だしく、
長近の軍勢は入国も叶わず、数度の合戦にも大負けしたという話も…。

しかし、
長近も織田信長の赤母衣衆であった武人でもあり、
風流も解すひとかどの人物。
そんな彼は照蓮寺と結び本願寺と通じ、
その後は飛騨制圧はスムーズに(というのもナンだが)進んだ模様。

そして。

内ヶ島氏理が佐々成政に組みして越中へ出陣中、
牧戸城を守る川尻氏信が金森長近に破れたため(内応説もあり)、
またもや帰雲城は内ヶ島氏の留守中に落城の危機に瀕したが、
とって帰った氏理は許しを乞い、
なんとか金森長近に赦免されるのだが…。


この時、天正大地震が起きます。


これは旧暦11月29日の亥子の刻というから、
新暦で言うと1586年の1月18日頃、夜11時〜深夜2時くらい、
飛騨・越中・加賀・美濃などに及んだらしい。
一説にはマグニチュード8.2くらいだったと…。
(一ヶ月も揺れ続け、余震も翌年春まで…と伝えられています)

帰雲山は大崩落し、帰雲城は一瞬にして埋まり、
長近に赦された事を祝う席が設けられていた事もあって、
内ヶ島氏の一族郎党ことごとくが城に集まっており、
内ヶ島氏に身を寄せていた東氏一族も合わせ、
皆が皆、巻き添えになった…と。
城の周囲にあった300軒余りの城下町もひとたまりもなく、
人馬全て飲み込まれ、城主を始め誰一人助からなかった。

……恐ろしいです。
日本のポンペイと言われる事もある話ですが…本当に怖いですね…。


帰雲山には現在もその「崩落跡」と呼ばれる所が存在するようです。

写真などで見るのですが…本当に岩肌が露出したまま。
だけど…400年は経つのに何故緑が戻っていないのか…、
個人的にはそこが寧ろ疑問で不気味です。
(山の表面だけは植物が生える地層で、下が岩盤なのか?。
それだと表面が滑り落ちてしまったから、
岩盤が露出したままで緑化されない…という事かな)

そして実は、
本当に「ここに帰雲城が在ったのか」は…、
現在でも実は確認できていないらしいのです。

生き残ったというより、
地震当日に帰雲城周辺に居なかったために、
命が助かった人達も極少数居るみたいなのですが、
(だからこそ「帰雲城がなくなった」と分かる訳で)、
それでも…その正確な位置はいまだ不明と…。


因に自分は白川郷へ行った時に、
白川郷に接する小高い山上にある荻町城跡にも
上った事があります。

この荻町城は内ヶ島氏の支城と言われているもので、
ここに立つと美しい白川郷が一望できるのですが↓。
(城跡から撮りました)

shirakawago001.JPG


支城という事は…本城である帰雲城も見えていたのかも…と、
目に入る空と山々を見渡しながら、
とりとめも無く想像したりしていました。


帰雲城。

本当に、一体何処にあったのでしょうか…。
謎は時間の向こうに遠く残されたままなのです…。



☆付記☆
今日のソースは…、

「美濃飛騨の歴史がおもしろい/小川敏雄/岐阜新聞社」
「消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理/賀来耕三/メディアファクトリー」
「顕如・教如と一向一揆 〜信長・秀吉・本願寺〜
  /長浜市長浜城歴史博物館/サンライズ出版」
「全国国衆ガイド/大石泰史/星海社」
「戦国人名事典/新人物往来社」

その他…からでした。


☆関連次項☆
『戦国 山の国物語1 〜飛騨高山と金森長近〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422833585.html

『戦国 山の国物語2 〜高山城〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422896777.html

『戦国 山の国物語3 〜高山の東山寺院群〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/429306219.html

『戦国 山の国物語4 〜姉小路頼綱とは〜 』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432385102.html

『戦国 山の国物語5 〜その後の姉小路頼綱〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432491895.html

『戦国 山の国物語6 〜飛騨の群雄割拠〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432572411.html

『戦国 山の国物語8 〜ここにも黄金伝説!〜 』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432832529.html
posted by 夏草 at 19:27| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月15日

戦国 山の国物語6 〜飛騨の群雄割拠〜

戦国期の飛騨地方もまた、
色々な国人、国司、守護と入り乱れていた訳ですが、
その末に(前項にも書きましたが)
雌雄を決する「八日町の戦い」が起ります。


時は天正10(1582)年、
松倉城主:姉小路頼綱(三木自綱)と、
高原諏訪城主:江馬輝盛との戦です。


この乱の前段の勢力圏はこんな感じ↓。

姉小路氏(吉城郡/よしきぐん 古川郷)
三木氏(大野郡・益田郡/ましたぐん)高山?
江馬氏(吉城郡高原郷)
広瀬氏(吉城郡広瀬郷=高山市国府町)
内ヶ島氏(大野郡白川郷)
多賀氏(益田郡?)


さて、少し詳しく、
飛騨の群雄割拠を見て行きましょう。
(この項はなかなか調べるのが難しかったので、
今後、訂正&追補があった時には加筆します)



まずは…姉小路氏ですが。
前項までを見ていただければ…w。


そして…三木氏。
京極氏の守護代:多賀氏から出たらしい。

応永18(1411)年頃、
姉小路尹綱の乱を京極高数が鎮圧、
その功により高数は幕府より飛騨国:益田郡竹原郷を得たと。
それに伴い、三木正頼が京極氏の代官として同地に入った事が、
飛騨における三木氏のはじまりと見られているらしい。

二代目:三木久頼は主家の没落に乗じて竹原郷を横取りし、
三代目:重頼は益田郡全体に勢力を広げ、
四代目:直頼は三木氏の戦国大名への基礎を築いた。

というのも、彼は桜洞(さくらぼら)城を築き、
近隣の国人領主たちを次々制圧し強大化、
京極氏や多賀氏に取って代わる力を増していった。

また、
木曽の森林資源を巡って、
対立していた木曾氏(義仲の子孫)を討ち取ったものの、
木曽勢に押し返されたり…この辺も色々あったらしい。

そして三つに分かれていた姉小路氏の一つ、
古河家の内紛に乗じて同家の実権を握り、
残りの小島家、向家を従わせ、
この時は、北飛騨の江馬氏や中飛騨地方の広瀬氏、
南飛騨の土岐氏と結び、
白川郷のの有力寺院である照蓮寺を通じて本願寺と、
そして同じ白川郷の内ヶ島氏とも繋がり、
勢力を拡大していく。


五代目:良頼の代でついに国司に成り上がります。

彼の室は江馬氏で、両者の関係は良好だったが、
妻が亡くなって、三木氏と江馬氏の仲は冷えたらしい。
しかし更に三木氏は近隣を横領したり、
戦で切り取ったりとますます勢力を拡大。
姉小路氏、江馬氏、広瀬氏、内ヶ島氏等々との同盟関係を主導した。
良頼は幕府・朝廷に働きかけ、
ついに、従五位下(じゅごいのげ)飛騨守を拝命し、
最終的に従三位(じゅさんみ)の地位を手に入れ、
姉小路古河家の後継(姉小路嗣頼)を自称する。

余談ですが、

「従三位(じゅさんみ)」とは位階の事で「公卿」…凄い高位ですね!。
なにしろ…足利将軍家とか北畠家とかが受けているのと同じ位です。
姉小路氏も家格が高く(元々お公家さんだし)従三位だったと。

という事から見ても、
三木良頼は…ものすごく姉小路氏に成りたかったんでしょうね、
自分も「姉小路」を名乗ろうとしたけど認められず…。
(でも自称はしたらしい)

また、この頃にはもう例の様子、
朝廷にお金を献上して位階を貰える事になっていたらしい。
従三位から上が上級官人という事らしいので、
在郷の下級武士がここまで来るには、
色々多方面、並大抵の粘りでは無かったんでしょうね。
(賀来耕三さんなどは「小悪党三木氏」とまで書いてます)


で、話をもどして…。

一方では、
長尾(上杉)氏・武田氏間の緊張関係下で、
前項にもかきましたが、
小領主たちはその勢力下に組み入れられながらも、
ぶつかり合いを繰り返す事に…。

三木氏も例に漏れず、
敗戦によって武田方に納まりながら、上杉に通じ、
武田方の江馬氏と軍事的・外交的な戦いを続けたと。
また、そのような複雑な立場で斎藤道三とも結び、
道三の娘を嫡男:自綱の室にもらい受け、
やがて美濃を支配下に置いた織田信長にも近づいた。

(そしてこの後詳しくは…前回の姉小路頼綱にて)

結果としては…天正13(1585)年、羽柴秀吉の命で、
飛騨に侵攻した越前国大野城主:金森長近に討たれ、
三木氏は「姉小路氏」という名跡も道連れに滅んだ…という。



江馬氏。

江馬氏もまた、高原郷(飛騨市)に根を張る、
飛騨の有力者であったらしい。
既に15世紀には高原諏訪城を本拠地としていたそうな。

この頃、江馬時常が娘を三木氏に輿入れさせていて、
関係は良好だったものの、彼女が若くしてなくなり、
両家の間は悪くなったと。

様々な同盟、敵対を経験し、
特に後年三木氏との間で何度も戦があったらしい。

また、武田氏・上杉氏の対立には、
どうやら江馬時盛(父)は武田に付こうと考え、
輝盛(子)は上杉方になりたかったらしい。
彼は三木氏に従って、上杉勢として従軍したりもした事があると。
しかし、結局父子が不和となり、家督を巡って争いが起こり、
天正6(1578)年(異説では天正元年/1572年)6月、
輝盛が父を暗殺したとされる。

このね、父子とか兄弟とか親族で組みする相手が違って、
敵対関係になる…ってもはや戦国時代の定番ともいえますが、
本当にシビアな対立ですよね。
まあ…現代だって生き死にが関係無いだけで、
深刻な争いは家族の間でも起こりうる訳ですが…。

そして…同じ10月、織田信長の死を知り、
江馬輝盛は三木自頼を倒すべく出陣したが、
八日町の戦いにて討ち死にした。

この江馬氏の滅亡によって、
姉小路頼綱に対抗する大きな勢力がなくなり、
頼綱の飛騨統一(白川郷を除く)が達成されたとも言えると。


広瀬氏。

応永18(1411)年、姉小路尹綱が所領の不満から、
幕府に弓を引いた事から起こった「姉小路尹綱の乱」の時、
この広瀬氏もまた、
父:広瀬常登は反幕府軍、
息子:広瀬徳静は幕府軍と分かれて参戦した。
この乱の結果は、姉小路尹綱と広瀬常登は破れて戦死。
(徳静は勝ったものの、不遇をかこつようになったそうなのですが、
ここら辺はもう少し詳しく経緯を知りたいです)

やがて応仁の乱で政治が乱れ、
国司:姉小路氏、守護:京極氏の力も衰えを見せると、
三木氏、江馬氏、そして広瀬氏が台頭して来る事に。
広瀬氏は三木氏と敵対した時期もあったらしいが、
八日町の戦いでは三木氏に加担。

この時は勝ったものの、姉小路頼綱に、
当主:広瀬宗域が謀殺され、その城を盗られたらしい。

この怨恨からか、後の金森長近の飛騨侵攻の際には、
広瀬氏は金森軍について姉小路頼綱に勝利したが、
自分の城の返還は無く、更に飛騨国人への圧力が強くなり、
江馬氏と共に、金森家に対して一揆を起こしたという。

しかし、金森長近の息子(養子)金森可重に追われ、
信濃へそして近江へ落ちのび、井伊氏に仕えたという説もある。



多賀氏。

飛騨守護:佐々木道誉に派遣された守護代。
佐々木京極氏の本国は近江であり、彼は飛騨以外にも、
近江・隠岐・出雲の守護だったので、
それぞれの守護分国には代官を置いていた。

多賀氏は、京極氏屈指の有力被官だったそうで。
15世紀半ばになると、多賀氏と多賀氏から出た三木氏が、
飛騨を実行支配するようになっていたらしいが、
勃発した「応仁の乱(1467年)」では、
多賀高忠が京極氏に代わって山名氏に対抗し、大奮戦した。

しかし文明2(1470)年、京極氏に世継ぎ問題が起ると、
京極氏と多賀氏は双方で身内が二派に分かれてあい争い、
結果多賀氏は衰退して行く…。

またですよ。
やはり身内の内紛や対立って、血で血を洗うだけでなく、
(それが一番恐ろしいとはいえ)
家の力も結果的に削いでしまう訳で、
こういう事を分からない訳では無いだろうのに、
それでも骨肉の争い…となってしまう、
戦国の荒々しい気風というか、
死ぬか生きるかがそれだけ切迫している時代というか、
この辺の空気をを生々しく実感・理解するのは、
現代ではちょっと難しいですね。



最後に…塩屋秋貞。

この人もね、
なんとBASARA3のモブ将として出て来ますよね!。
BASARAって…、
なんでこういうマイナーなトコは突いて来るかなw。

彼はその名の示すように「塩」商人だったという説も。
塩を制する者な訳だから財力があったという話もあり、
三木氏などにお金を貸していたとかいないとか…。

一時期上杉家の配下にあったが、
一方で江馬輝盛・内ヶ島氏理・三木自綱らを
支配下に置いた事もあると。
…やっぱり財力で、でしょうか。

しかし姉小路頼綱(三木自綱)が、
飛騨の雄になっていた頃には(頼綱の家督相続は1572(元亀3) 年) 、
塩屋秋貞は彼の配下にあって、
1576(天正4)年に上杉氏が飛騨:内ヶ島氏の帰雲城を襲い、
略奪して帰参した後を任されたらしい。
(という事で…内ヶ島氏の白川郷実行支配は続いていたものの、
姉小路頼綱と内ヶ島氏理との間は同盟関係のようなものだったのかも)

本能寺の変の1583(天正11)年、
攻め寄せて来た秀吉に徹底抗戦の佐々成政に組みし、
鉄砲で撃たれ、秀吉方の金森長近に破れて…、
歴史の表舞台からは消えた模様。


そして…繰り返しになりますが、
天正13(1585)年のこの金森長近の飛騨侵攻によって、
飛騨全般は平らげられてしまいます。


かなり長い間、飛騨地方で優劣を競い、
ヒエラルキーの争いをしていた小領主たちも、
結局織田配下の、
様々な点で近代的武将に破れた…という事なのでしょうか。

そして次項は…、
内ヶ島氏と帰雲城について!です。
幻のように消えてしまった城、そこにはどんな歴史があったのか…。



☆付記☆

『戦国 山の国物語4 〜姉小路頼綱〜』
『戦国 山の国物語5 〜その後の姉小路頼綱〜』
『戦国 山の国物語6 〜飛騨の群雄割拠〜』

の項のソースは、

「美濃飛騨の歴史がおもしろい/小川敏雄/岐阜新聞社」
「全国国衆ガイド/大石泰史/星海社」
「戦国人名事典/新人物往来社」
「境界線と戦国諜報戦/盛本昌広/洋泉社」
「消えた戦国武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理/賀来耕三/メディアファクトリー」
「戦国合戦地図帳/学研」

その他…からでした。


☆関連次項☆
『戦国 山の国物語1 〜飛騨高山と金森長近〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422833585.html

『戦国 山の国物語2 〜高山城〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/422896777.html

『戦国 山の国物語3 〜高山の東山寺院群〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/429306219.html

『戦国 山の国物語4 〜姉小路頼綱とは〜 』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432385102.html

『戦国 山の国物語5 〜その後の姉小路頼綱〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432491895.html

『戦国 山の国物語7 〜幻の帰雲城と内ヶ島氏〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432718407.html

『戦国 山の国物語8 〜ここにも黄金伝説!〜 』
http://ikiikien.seesaa.net/article/432832529.html
posted by 夏草 at 02:15| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする