2013年01月11日

この世とこの世ならざる世界 〜政宗公とお能4〜

歳を跨いでのこのお題。
今日は…つづきで『船弁慶』について、また戯言をば。

これは弁慶と出ている事からも分るように、
義経と弁慶の物語で、
能楽と歌舞伎は『船弁慶』、そして落語にも『舟弁慶』とあるようで。
もっとも、落語の方は落語らしく、
故事や能・歌舞伎を本歌取りした楽しい一席らしいです。
(前項で間違って『舟弁慶」と書いちゃったんですけど、
お能の場合は『船弁慶』という事で…前のブログも直しました;)


お能の方、あらすじは…。

壇ノ浦の合戦で、
平家を倒すという宿願を果たした源頼朝・義経兄弟だったが、
その武功故に義経は兄に疎まれる事となり、一転、西国へ逃避行となる。
摂津国大物浦(だいもつのうら)まで来た時、
彼等を追ってついて来た愛妾:静御前が、
これからの道中、女の身でもあり色々不都合と、
都に帰るよう弁慶に諭され、義経も彼女と酒を酌み交わし、
悲しみのうちにも静は優美に舞を舞い、泣く泣く義経の元を去る。

その後、瀬戸内の海へ漕ぎ出した一行の行く手には文字通り暗雲が…。
たちまり荒れる海上、現れたのは平家一門の幽霊船。
平知盛の怨霊が義経を海に沈めようと義経達に襲いかかる。
義経は果敢に亡者たちと斬り結ぶが、
弁慶が必死に不動明王に祈ると、
知盛たちは引き潮にさらわれ、波間に消えていく…。

以上、源平の故事による「船弁慶」の物語。
(作劇上の脚色もあり、別れる場所など史実と違う点もありますが)

これは前半のシテが静御前、後半のシテが平知盛なのですね。
つまり、
一人の演者が前半では「女性である静御前の優美さ」を舞い、
後半では「平家の公達で今は亡霊の知盛の激しい戦い」を舞う訳です。

という事は…この一曲だけで、
華麗さ優美さと勇壮さ派手さを楽しめるという事で。

更に物語はなにしろ義経・弁慶と平知盛ですからね、
観ている人達にとっては「慣れ親しんだ古典」であり、
しかも「武士の先人の戦記物」でもあるので、
さまざまな情の交錯するスペクタクルな訳で、
ある意味「鉄板」と言えるかと。

政宗公は渋いものにも目利きでしたが、
こういう華やかなものもホント好きだったんでしょうね、似合ってますよね。

それと…この演目では義経は「子方(こかた)」といって、
ホントに子供が演じるんですよね(面もつけていません)。
自分が見た時は…小学校3〜4年生くらいかなあ。

でも、この物語の主役というか…主眼は義経ですよね。
(舞いを味わうのは「静の舞」であり「知盛の舞」だから、
シテはそちらなんだろうけど)
しかも愛妾:静とか出てきちゃうのに…、
子方って…どうして???と、最初自分は思ったんですけども。

これには色々と説があって。
一つには…そのシテである静御前や知盛を凌駕しないように、とか、
別な見方だと、義経と静の別れが濃密な感じにならないように、とか、
義経を美しく見せるため、静との直接表現を避けるため、とか…あるようです。
(という事は…あくまでやはり「舞を堪能する」という事が主眼なのね)


だけどさ。
個人的には…更にちょと思ったんですけどもね。

能楽って…最初は猿楽で、世阿弥は小さい頃から舞台に立っていた訳ですよね。
美少年で有名だった訳で。
彼を愛した将軍だって居た訳で。

で。
この頃はまだ「稚児愛」ってあったと思うんですよ。
だって…小姓だって居たし。

だから!!。
「義経と静」を観たいというよりも…、
鑑賞者達は「可愛い義経」が観たかったんじゃないか!。

でも、
政宗公が「俺の好きな『船弁慶』を演じろ!」って言った頃には、
既にお能は舞を観るものとして完全確立していたんじゃないかと思うんで、
ものっっっっそ素人考えですけども、
『船弁慶』の場合、シテはもう静と知盛で十分なので、
(弁慶もワキだし)、
じゃあもう義経は「子方」としよう…となったのでは。

だからだから…もう『船弁慶』なんて、
スーパースペシャルな出し物だったんじゃないかなw。
華麗だし勇壮だし豪華だしストーリーは波乱万丈だし、稚児は可愛いしwww、
見所満載の楽しさてんこ盛り。

先の『海士』とまた違った意味で、凄く心躍る舞台。

なので…政宗公は大好きだったんじゃないか!…と勝手に妄想してますw。


ホントにね。
『船弁慶』は装束も美しいです。
これを観るだけでも…お能の豪奢と異世界感がいっぱい。
お洒落な政宗公ですから、
きっとすごい装束を能役者たちに下賜してたんじゃないかな。
いや〜〜どんだけ絢爛豪華だったんだろうなv。
ラベル:船弁慶 伊達政宗
posted by 夏草 at 00:34| Comment(0) | お能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月29日

この世とこの世ならざる世界 〜政宗公とお能3〜

今日はちょと視点を変えて、
政宗公の好きな曲について、
素人なりに思うところを書いてみようかと。

まず。

政宗公が齢60を過ぎた辺り、
勧進能(一般興行)を見に行った際、
舞台がもう終わってしまっていて、
それを悔しがって大暴れした逸話がありますよねw。

結局、
座元や多分この時シテだった七太夫に強引に働きかけ、
再び舞台をつとめさせものの、
殿様は見物客に酒を半ばムリクリ勧めるわ、
肴やら金子をばらまくわ、
桟敷から飛び出すわ、舞台に上がるわ、もう大騒ぎになったが、
御当人はもう大はしゃぎだったという…;、
傍から見ると大迷惑だわ、大笑いだわのアノ話です。

余談ですが、コレって細川三斎忠興さんから、
息子:忠利さんへ宛てた書状にあった話として有名ですよね。
「政宗、ついに狐憑いたって感じ」って書かれてますw。
でも当時「狐憑き」という考え方って、
一種「心神喪失=本人には責任が無い=仕方無い、困ったな」的な、
捉えられ方だったそうで…。
まあ…政宗公はホントにちょとこの頃は、
「出来上がってる不良老人」として評価が定着していたようなんでw、
(しかも、家康も秀忠も居ない=政宗公への重石が無い状態、
家光は伊達の爺が大好き=更に重石が無いw状態)
「仕方ねーーな全くこの人は!」な扱いだった…らしいですがw。

それと、
この書状で「この話は余りに嘘のような話だけど、
丹羽長秀殿と立花宗茂殿が私に話してくれた(ので本当だ)。
(これはあまりうそさうなる事に候へども、
丹五郎左殿、立飛騨殿、我々へ物語りにて候)」と、
二人の名前が挙っている所がミソですねww。

三斎様にとってというか…当時の世間にとって、
特に「宗茂さんは良識人」として捉えられてたようなんですよね。
だから「この話は本当の事だ」と言ってるwww。

その「宗茂さんが政宗公と一緒に居て」という逸話もちらほらある。
同じ年齢の上、同じく戦国を生き抜いた爺同士でもあるし、
宗茂さんは「(政宗公とは違う意味で)皆に一目置かれていた」訳なのでw、
幕府の行事とかいろんなイベントとかで、やんちゃ政宗公が居る所、
重鎮宗茂さんがなんとなく…セットされてたんじゃないか…、
そんな事も…多々あったんじゃないか??…とにやにや妄想する自分です。
(政宗公の孫娘:鍋姫が宗茂さんの嫡男:忠茂さんの嫁さんだしね)


と…話を戻しますればw。

この大騒ぎの時、政宗公はこう言ってます。
「ワシの大好きな『海士(あま)』と『船弁慶』を演じろ!。」

『海士』と『船弁慶』。

あんまり詳しく無いので、素人的印象ですが、
まずは二つとも、
とても華麗でドラマチックな印象のする演目だと思います。


で…最初は『海士』について少々。

まずはあらすじを。

藤原淡海(不比等)の次男で、大臣:藤原房前(ふさざき)は、
幼少の頃母を亡くしていたが、
母の故郷は讃岐国志度であると聞き、供養の旅に出る。
浦に着くと…果たして一人の海士が現れ、
房前の出自について語り聞かせてくれた。

その昔、
藤原淡海の妹が唐の皇帝に嫁し、
彼女の氏寺が奈良興福寺であったため、
唐土から寺へ三つの宝が贈られた。

それは、
「かげんけい/華原馨」(⇒祭礼に使われる打楽器らしい)
「しひんせき/泗濱石」(⇒墨を摺ると自然に水が湧き出づる硯)
「めんこうふはいのたま/面向不背の珠」
 (⇒どこから見ても、釈迦の姿が必ず正面になる不思議な宝珠)だったが、
旅半ば、
「面向不背の珠」がこの浦の沖合で竜王に取られてしまった。

淡海は宝玉を取り戻そうと、身をやつしてこの浜にやって来る。
そして、浜の海士(海女)だった乙女と契り、
息子:房前をもうけるが、
もし彼女が竜王から宝玉を取り戻してくれたら、
この息子を藤原家の世継ぎにすると約束する。

それで海女は海に入って竜宮から珠を奪還、
乳房の下を掻き斬り、ここに珠を隠して浮上するが、
海の上で絶命してしまう…。

ここまで語った房前の眼前の海士は、
「実は自分こそがその海女、そなたの母だ」と告げて消える。

後に残された手紙には、
「死後13年もずっと顧みられていない。
是非とも自分の菩提を弔って欲しい」と書かれていたので、
房前がその願いを叶えると…、
龍女となった母の亡霊が立ち現れ、
法華経の功徳によって成仏できたと喜び、早舞を舞う。

こうした房前の孝養によって、志度は仏法繁栄の地となった。
以上、讃岐国志度寺縁起…の顛末。


この物語は…ミステリアスですね。
藤原不比等の妹が大陸の皇帝に嫁いだ件とか、
藤原房前の母が、身分の無い志度の浜の海女だったとか、
ここら辺はフィクションなのですが、
実際に興福寺には、
「かげんけい」「しひんせき」は実在しているという話が。

それどころか…、
「面向不背の珠」も実際あったという伝承もあるのですが、
ここら辺も面白いので、いずれ別項で追いかけてみたいとwww。

それから…仏教的な話を一つ加えると、
この「龍女」というのは…「龍女成仏」という事ですよね。
最初の頃の仏教ではそうでは無かったらしいのですが、
どうも日本の奈良・平安期に、
「成仏できるのは男性だけ」という解釈が出て来て。
女性はじゃあどうやって成仏したら良いのか!という訳ですが、
なんらかの霊的な力によって、
女子が一度男子になったり(「変成男子/へんじょうなんし」)、
龍女になったりすると…、
やっと成仏できるという説話がありまして。

つまりは…この海士が成仏する事を象徴的に表した事が、
「龍女」という造形として出て来たんだと思われます。


いずれにしても、
設定が藤原家であったり、龍女伝説が出て来たりするので、
民俗学的には起源の古いお話かもしれませんが、
色々と神秘的ですね。


さて!!、
これを政宗公がどう見てたのか…って所を、
今回妄想してみようという事なのですが(おいw。

まずは勇壮で華やかな所が政宗公好みと言えるかと。
そしてミステリアスなテイストが散りばめられ、
キラキラワクワクな感じも、殿様好みではないか…。

そしてそして。
『海士』って…ある意味、とても勇ましいお母さんの話ですよね。
誰かのお母様と…重ならないですか?。
しかも、息子への情愛が深い。
これも…逆にとても意味深で感慨深いですねえ。

この演目はシテ(主人公)が女性なんですけども、
舞もとても勇壮で闊達な動き、華麗な感じです。

しかも、装束がとても美しい。
前のお能の項でちょっと書きました「龍戴」という、
とても綺麗な龍の冠をつけて、
舞衣(=女神に多様される上着)を着た女性の姿…。
とても優美です。

そして、面ですが、
「泥眼(でいがん)」とか「橋姫」と言われる面を用いると。

「泥眼」というのは、
目の部分…白目の所に金を塗るんですね。
そうすると…、
動きによって眼が怪しく金色に光り、神霊性が高まる。
元々「泥眼」は「龍女」用の面だったという話もあるのですが、
『葵の上』の六条御息所…つまり「生霊」にも使うらしい。
成仏した女性、出来ない女性、両方に用いられると。

「橋姫」という面は…なかなか恐ろしい表情というか、
強ばった哀しい女性の顔の面です。
伝承では元々美しい人だった「橋姫」なのですが、
嫉妬に狂って気持ちが乱れ…というような、
劇的な表情をたたえています。


息子を思う烈女。
しかし、成仏できずに苦しんでいる。
それが…息子の祈りによって救われるストーリー。

どうでしょう…。
強く美しい母。
しかし時には相容れない母。
だけど息子としてやはり慕わしい母。
奥州のもう一組の母と息子の間には、きっと他人には踏み込めないものがあった…。

美しく華麗な場面を見ながら、
政宗公の胸に交錯したのは…どんな場面、どんな思いだったのでしょう。

posted by 夏草 at 19:04| Comment(0) | お能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月08日

この世とこの世ならざる世界 〜政宗公とお能2〜

間空きましたが…政宗公とお能:第二夜です。

ソースは前回と同じ、
『仙台藩ものがたり』 河北新報社編集局編
『能・文楽・歌舞伎』 ドナルド・キーン著
そして、
「有名某歴史板様」(うちが「ふ」なのでリンクは遠慮してます)
等々…でございます。

さて。

お能は時の権力者によって高みに引き上げられた芸能だったため、
パトロンとも言うべき将軍や為政者の好みによって、
そのメインストリームが入れ替わってしまうという、
宿命を持っていたのですが。

足利義満は観阿弥・世阿弥、
そして犬王(後の道阿弥)の庇護者であり、
次代の将軍:義持は田楽の増阿弥を支援し、
その次の義教は世阿弥の甥の元重を寵愛したそうで。

そして時勢は、
一時的な安定の後、政治的な混乱や戦禍の渦中へ…。
そのような時、
人々は能楽に生死感や仏教的境地を盛り込んで行ったり、
とりわけ禅の世界とも響き合う、
極度に贅肉を削ぎ落とした象徴的な表現などに、
傾倒して行ったりしたらしい…。

やがて戦国時代となり、
能はその存続に殆ど壊滅的な打撃を受けたようなのですが、
太閤秀吉は積極的に能楽を保護し、
秀次の猿楽指南役だった下間少進(しもつましょうしん/下間仲孝)の影響からか、
金春流を好み、その当代には特に金春流がとても隆盛となったそうな。

徳川の治世になると、
今川家の人質時代から能楽に接していた家康の庇護の元、
観世・金春・宝生・金剛の四派は命脈を保つことに。

というのも、
徳川政権にとっての「能楽」の位置づけは、
幕府(=時の政権)にとっての「礼楽」という事で…、
演者は舞や囃子を間違えてはいけないばかりか、
弛緩安逸を一切許されず、それらを守れない者には処罰が下るという程、
厳格な枠組みの中に保護されたようです。


そんな中。
やっと政宗公がらみのお話になるのですが。

ここに…喜多流始祖の初代:喜多七太夫長能という人が登場します。
七太夫は元々、
大男にして剛毅な芸風で知られ、「鼻金剛」と呼ばれた、
金剛兵衛尉氏正(こんごうひょうえのじょううじまさ)に師事し、
ここから独立して新しい流派を興す事になった…という事で。

(因に金剛氏正が「鼻金剛」とあだ名された由来ですが。
ある時彼は(一説には…遊興に耽って身を持ち崩し、
能の面までも金に替えたか、人手に渡してしまったそうで)、
仏像の頭部を落として顔の部分を面代わりにつけて舞っていたところ、
仏罰が下ったのだろうか、
鼻の部分が欠け落ちてしまった…という逸話が。)


この七太夫にもとても有名な逸話がありまして。

話は少し戻りまして…大坂の役のことでございます。

七太夫も豪胆というか気骨のある人物だったのか、
秀吉に仕えた筋を通し、大坂の役には実際に出陣し、
なんと…真田左衛門信繁の陣営で徳川に弓を引いた…という事なのです。

もっともこの話、
歴史的信憑性は低いという懐疑的な見方もあるのですが、
更に、戦の後、
彼が藤堂高虎、或は黒田長政に匿われていたという説もあったりと、
なかなか七太夫は謎とロマンのある人物でして。

面白いのはこの後、彼の能楽師としての資質を惜しみ、
関ヶ原の戦の時には、その真田家に挫かれた徳川秀忠その人が、
七太夫を許した上に寵愛し、
新しい流派「喜多流」の創設を認めたそうなんですよね。

しかし、
秀忠の余りの庇護を快く思わなかった他流派の人々から、
却って喜多流は敵視される事になったらしく、
秀忠の死後、
「関寺小町」という小野小町を題材にした曲の上演をきっかけに、
激しい糾弾に遭い、
(その表向きの理由については、
自分的には余り内容をきちんと把握できてないのですが、
なんでも…この曲が、
正統から大きく外れ、伝統に背くものである事や、
そして儒教から見て重大な罪がある…という事が理由とされていて。
↑両者とも具体的にどの辺がそうなのかが自分的に不明)
とうとう三代将軍:家光が七太夫に蟄居を言い渡したと…。

しかし。

ここでやっと!政宗公が御登場な訳ですが!。

政宗公は家光公を饗応したりしてとりなし、
喜多七太夫は異例の赦免が叶ったという…。

七太夫の能楽には結局、
政宗公をはじめ…沢山ファンがついていた…という事でしょう。
それは件の高虎さんや長政さんもそうだったんだろうと想像します。

で、これが御縁となり、
仙台藩は金春流と喜多流の二大流派を抱える事となったそうな。

因にこの時、政宗公は67歳くらい。
20歳から能楽に親しんだ訳なので…、
かれこれもう50年近くの能への傾倒なんですよね。

政宗公はそんな訳で太鼓は名人級、鼓もかなりの腕前だったとか。
支倉常長の遣欧使節に動向したスペイン人大使:ビスカイノは、
仙台で能を見たそうで。

雄に、
200を越える演目を持っていたと言われている仙台藩。
政宗公の好みは、平将門の物語や平家物語だったそうで、
舞台に涙した事もあった…と伝えられています…。

戦国武将であった政宗公。

更に一つ前の時代の武将達の生き様に、
時に想いを馳せ、時に自分の心情を重ねて、
移ろい行く時の陰影…心の奥底に立ち現れるその光と影の揺らめきを、
しみじみと味わっていたのかも…知れません。
posted by 夏草 at 00:14| Comment(0) | お能 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする