2012年10月20日

いまだ、神秘の壁の向こう… 〜大徳寺未見の塔頭について〜

この前までここで、
「大徳寺散歩」シリーズを書いてみたんですけど、
今春はこれしか行けなくて…トホホ。

他にも戦国武将に縁のある塔頭が沢山あるお寺なので、
将来是非行ってみたいという気持ちを込めまして、
未見分のお寺をまとめてみます♪。


まずは、常時公開中の塔頭。


☆瑞峯院(大友宗麟菩提寺)

天文4(1535)年に、
大友宗麟が帰依した大満国師:徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)を開祖に、
自らの菩提寺として創建したものらしい。
瑞峯院は宗麟の法名。
こちらには彼の肖像画と夫妻のお墓があるそうです。

九州のキリシタン大名として知られる大友宗麟ですが、
このお庭にも「七個の石で表した十字架」があるそうです。
しかし彼がキリスト教に出会ったのは、
こちらを建ててから約15年後くらいの事であり、
正式に洗礼を受けたのは、その更に20数年後なので、
創建当時はまだ禅宗の人だったという事でしょうか。

で、
この人もキリスト教徒であるにも関わらず(洗礼名:ドン・フランシスコ)、
やっぱり仏教のお寺に墓所があるというのは…、
致し方ない歴史の流れという事でしょう。

宗麟さんもね、
ホントーにいろいろと血縁で苦労した人という印象を持っていまして。
その上興味深いのは、そこは九州の雄ですから、
とにかく立花道雪やら宗茂やら高橋紹運やら、
島津さんやら龍造寺さんやら筑紫さんやら秋月さんやら、
九州の凄い人達と絡んでる人でもあり、
いつかは足跡をがっつり辿ってみたい武将の一人です。


☆龍源院

応仁の乱の後に建立されたらしい、大徳寺塔頭の中で一番古いお寺。
文亀2(1502)年、永正9(1512)年の両説がある。
東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開祖とし、
能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。

もう一人、こちらに関係のある武将として、
飛騨高山城主:金森長近がいる。
彼は元々、織田信長追善のために大徳寺内に金龍院を作ったが、
その後代々金森家の墓所となったそうな。
明治時代の廃仏棄釈により、大阪住吉神社内の慈恩寺と共に、
現在のこの龍源院に合併になったそうで…。

因に、
龍源院に合併される前の金龍院は、
現在の今宮門前通り、紫野高校のテニスコート付近らしいです。





通常は非公開ながら、春&秋に特別公開になる事もある塔頭から。


☆芳春院(加賀:前田家菩提寺)

こちらは慶長13(1608)年に、
前田利家の正室:まつ(芳春院)が、
玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として建立したそうで。
芳春院はまつの法名から。

利家の子:利長が小堀政一(遠州)に依頼したといわれる、
呑湖閣(どんこかく)が有名ですね。
非常に優美な楼閣で、
金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)と並んで、
「京の四閣」と称されているらしい。

こちらには、
まつと利長、利常(鼻毛で有名ですねw)の御霊屋があり、
まつさんはホントに分骨埋葬されているそうです。

彼女は利家さんとの間になんと…11人子供が居たんですよね!。
いくら戦国時代といっても、かなり子沢山な方。
これって…政宗公の祖父ちゃん:晴宗公正室:久保姫と同じ記録だそうです。


☆興臨院

室町時代の大永年間(1521〜1528年)、
能登の畠山義総が小渓紹?(「付」の下に「心」=仏智大通禅師)を開山とし、
以降、畠山家菩提寺だそうです。

で、その後、畠山家が没落すると、
天正9(1581)年に前田利家により改修が行われ、
前田家の菩提寺となったそうな。


☆聚光院

永禄9(1566)年、三好長慶(みよしながよし)の後継:義継が、
義父の菩提を弔うため、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)を開山として建立。

利休の墓をはじめ、
三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。
狩野永徳筆の国宝の障壁画があるそうです。




非公開の塔頭。
こちらは厳しい仏道修行の場として生きているため、
観光目的の公開の実現は厳しいらしい…。


☆龍翔寺(別院)

そもそも、大応国師(南浦紹明)開山とし、
大徳寺創建より古い延慶2(1309)年に始まったお寺らしい。
しかし後に焼失、天文年間に大徳寺に再建されたそうで。

秀吉の母:大政所と、佐々成政のお墓があるらしい。


☆玉林院

慶長8(1603)年、後陽成天皇の侍医:曲直瀬正琳(まなせまさよし)が、
月岑宗印(げっしんそういん)を開祖として創建。

火災により焼失するが、まもなく片桐且元によって再興されたらしい。
大坂城の残材を使ったという話も…。
しかし再び焼失、大坂の豪商:鴻池了瑛(4代目鴻池善右衛門)が、
家祖とされる山中鹿助を祀る「南明庵」を建て、中興した。

創建当初は正琳庵と称していたが、
「琳」の字を分けて現在の院号「玉林院」に改めたそうな。


☆大慈院

天正13(1585)年、天淑宗眼が開山。
後に立花宗茂の菩提寺となったらしい。
立花宗茂の位牌や墓、肖像画もあるそうです。

こちらのお寺自体は拝観はできないようなんですが、
境内に鉄鉢料理:泉仙<大徳寺店>がある事で有名ですね。


☆龍光院(りょうこういん)

慶長11(1606)年、黒田長政が父:孝高(如水)を追善するために建立。
因に、龍光院は如水の法名。
小堀遠州好みの茶室「密庵(みったん)」が有名。
天目茶椀の中でも名品中の名品とされる「耀変天目茶碗」も所蔵してるそうな。
有栖川宮の墓所(初代・好仁親王〜七代・韶仁親王)もあるらしい。


☆大光院

文禄元(1592)年、古渓宗陳(こけいそうちん)の開祖。
豊臣秀吉の同母弟:秀長の養子:秀保が、
秀長の菩提寺として大和郡山に創建し、秀長の法号を寺号としたらしい。

嗣子無く秀保が没したため断絶したが、
慶長4(1599)年、藤堂高虎が金龍院の南移築したそうな。
文政7(1824)年には焼失したが、文政13(1830)年藤堂家によって再建、
昭和に入って紫野高校の用地となり、現在地である龍光院の南に移転したらしい。

豊臣秀長の墓所。
茶席「三石席」がある。



以上、
ざっとメモしてみましたが…、
大徳寺は茶の湯と縁が深い事もあって、
実はお茶席とか茶道にまつわる見所が沢山あるようです。

個人的には不調法者なので…ここでは割愛しましたが、
お茶に関心のある方なら、
それも含めての散策は更に楽しいかもしれませんね☆。
ラベル:大徳寺
posted by 夏草 at 00:55| Comment(0) | お寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月16日

大徳寺散歩5 高桐院 〜細川忠興、ガラシャ〜

今日は、
石敷と緑の参道がとても印象的な高桐院でございます。

ここは細川忠興公と縁の深い所ですが、
忠興さんという人も、
個人的にとても心惹かれる武将の一人。

まず、
彼はは非常に優れた武人で、
ノブ様にもとても気に入られていて、
奇しくも、
現存するノブ様直筆の書状、たった三通のうち一通が、
与一郎(忠興)宛だったりしますよね。

非常に優れたアーティストでもあり、しかも付き合いが多彩。
有名な鳥毛立ちの兜やら、工夫した鎧の話、
利休七哲の1人やらと…エピソードにはこと欠きません。
(なんだかんだ言って、政宗公ともいろいろねw)

最も核の部分としては、
お父さん:藤孝(幽斎)との確執を含む関係、
妻:玉(ガラシャ)への屈折した愛、
そして…息子達への複雑な思い…、
性格的に激しい面を持っていたらしい、興味深い人だと思いまして。

(幽斎&三斎と…こちら様も別項でまとめてみたいですね☆)


さて。

そんな忠興さんによって高桐院が建立されたのは、
慶長6(1601)年という事ですから、
関ヶ原の翌年という事に。

開山は、
玉甫紹j(ぎょくほしょうそう)和尚だという事ですが、
この人は父:幽斎の弟らしい。

因に忠興さんの生まれは、永禄6(1563)年で、
(政宗公より四つ上かな)、
亡くなったのがは…正保2(1646)年らしいので、
どうも83歳くらいまで生きた…ホントに御長寿ですね。

こちらのお寺の小冊子を拝見するに、
忠興さんの遺言通り、
ここに実際に遺骨(遺歯ともいわれる)が納められているそうで、
その意味では本当に三斎公が眠っていらっしゃる墓所ですね…。

そんな墓所の入り口…↓。

koutouin01.JPG


こちらにある石灯籠が…、
「三斎様とガラシャさんの墓標」という事に。

有名な逸話なので、御存知の方も多いと思いますが、
この石灯籠は、元々千利休宗匠が秘蔵していた、
「天下一」といわれたものだったそうなのですが、
太閤秀吉と三斎様と両者から「所望」されたそうな。

利休はわざと裏面三分の一を欠いて、
「これは疵物でございます」と秀吉の要請を断り、
自刃の際に、三斎様に遺贈した…という。

しかし、
この灯籠は更に蕨手、灯口、横が欠けていて、
それらは後日、「完全を好まない」三斎様が、
更に欠いた…という逸話も。

(因に高桐院には、
ガラシャさんの自害の経緯で廃嫡された、←政治的な背景も大きいですが…
忠興の嫡男:細川忠隆(長岡休無)や、
出雲の阿国、
その恋人ともいわれた名古屋山三郎、
そして…「一木四銘」の香木を、長崎で伊達家と争った時の、
細川家家臣:興津弥五郎衛門のお墓などもあるみたい。

関連項目↓
『御殿様とお香 〜伊達家篇2〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/129908148.html?1350376153 )


尚、
忠興様の菩提寺は他に、熊本の泰勝寺、
ガラシャさんのは…大坂崇禅寺らしいですね。

それにしても。

明智光秀が本能寺の変を起こしても、
それが天下取りに繋がらなかった背景、原因の一つには、
この細川藤孝&忠興父子の動向が大きく影響していたという話、
いつ思い出しても強烈だな…と思います。

光秀から見ると、
細川藤孝は不遇の時代から親しい人だし、
お互いに文化的な人だし、
なにしろそんな縁からも娘婿の父だし、
「藤孝殿、忠興殿は、有事の際、
この光秀についてくれるに決まっている!!」だったらしい。


しかし。

しかしですよ…。
恩ある信長公への気持ちもあったとは思いますが、
それにしても藤孝さんは…強かでしたね。
明智光秀に即行NO!を突きつけた訳で。

父・子で元結を切ってノブ様への弔意を表した上、
藤孝さんは更に完全に剃髪して、忠興へ家督を譲ってしまった。
電光石火の早業でした…。

「自分が信長を襲ったのは、婿の忠興を取り立てたかったからだし、
50〜100日で近隣を平定したら引退して、
息子達に世を引き渡すつもりだった」と、
光秀の気落ちした書きつけが残っているらしい…。

藤孝さんは足利将軍の危急存亡の時に立ち会ってるし、
その時期、息子:忠興さんは父に捨て置かれて不遇だった訳で。
で、その後はノブ様の激動の戦乱に身を置いて、
そして本能寺の変となれば…、
常に激動の中を生きてる感覚として、
もう細川家も必死だったんだろうと思いますが、
こんな一世一代の局面を「読み誤らない」という人達が、
生き延びて行くんだろうな…とつくづく思います。

光秀は気の毒でしたが…、
細川家の全身全霊のその覚悟と生き様が…凄いと思ってしまいます。

その生き方にガラシャさんも巻き込まれた訳で、
彼女も本当に激しい一生だったですよね。
ガラシャさんもそれはホントに苦しかったと思うけど…、
岳父と愛する妻の板挟みになった忠興さんも…大変だったよね……。
彼はガラシャさんの気持ちを汲んで、
ちゃんとキリスト教式のお葬式をあげてますしね。

でもきっと、
当時のキリシタン大名とか高貴なキリシタンの人々は、
結局、後日幕府の禁令もあって…普通のお寺に埋葬されちゃった、
(埋葬され直した)んでしょう…ね。


今はもう、
昔日の激動とは無縁の苔むした春日灯籠を目前にして、
オイラも心静かに、
三斎様とガラシャさんに向かって……合掌…して参りました。
posted by 夏草 at 17:36| Comment(0) | お寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

大徳寺散歩4 黄梅院 〜信長、隆景、そして氏郷〜

大徳寺にはホントーに、
有名な戦国武将縁のお寺(塔頭)が多いんですが。

今日は…黄梅院の巻です。

こちらは…ノブ様が初めて上洛した際に、
父:信秀の追善のために普請させた…、
という謂れのあるお寺だそうで。
小さな庵だったので、当初は「黄梅庵」だったらしい。

織田信秀の菩提寺として有名なのは、
名古屋の萬松寺だと思うんですが、
こちらは信秀さんが開基した織田家の菩提寺という事らしい。

黄梅庵は臨済宗らしいのですが、萬松寺は曹洞宗。
両方とも禅宗だという事で??…こうなった??のかもしれません。
(個人的には臨済宗と曹洞宗とはやっぱ違う宗教と思うんですけども。
どうなんでしょう、その辺は…(謎)


更に。

ここで!。
昨日のブログの総見院と関連して、
「ちょと気になる事」が浮かぶんですけども。


黄梅院で戴いた小冊子には、

『天正10(1582)年6月2日、
本能寺の変により信長公が急逝すると、
同年10月15日密葬され、その後
秀吉公は「黄梅院」に築を加える。
しかし、
主君の塔所としては小なりとし、
信長公の法名:総見院殿より総見院の名を採り、
山内に別に「総見院」を建立し御祀りした。』

…とありまして。


密葬…。

ノブ様の遺体は発見されなかったという話にのっとれば、
この密葬は…やっぱり、
「そういう気持ちで実体無しに」という事だったんでしょうか。

でもって、
秀吉は最初、信秀公の菩提寺でもある黄梅庵なので、
ここに同じく主君の菩提を弔おうとしたって事ですかね。
(でもここは「小さいから」総見院を建てたと。)
という事は。
先の説の阿弥陀寺の僧侶:清玉上人には、
身だけ来て貰って、黄梅院(か総見院)で、
ノブ様のお弔いをして貰おうという事だった…のでしょうか??。
だとすると、
阿弥陀寺の立場としては「うちに既に信長公のお墓あるし」となって、
「秀吉公の言うようにはしません」となったのかな…(謎。

いやいや…阿弥陀寺って阿弥陀ってくらいなんで…浄土宗だし。
織田家は禅宗と考えると…どうなんでしょう!!この辺も!!w。
そういう事ってあるのかな…。
いやいや…清玉上人が元々浄土宗だったから、
流れとしてこうなったのか?(謎。

(関連事項↓
『大徳寺散歩3 総見院 〜織田信長と信仰〜』
 http://ikiikien.seesaa.net/article/297339865.html )

あ!因に、
織田信長の戒名(法名)、
「総見院(惣見院)殿贈大相国……(後半諸説あり)」の、
「総見院殿」が「総見院」の由来になっているという事で。


やっぱりね、
ノブ様の死は謎が多いし、もともと御本人が巨星だから、
死後も御弔いとかの経緯が一本化されずにいろいろあるんですね…。
これはもうこのクラスの人には仕方無い事かも。



そして。
こちらの「黄梅庵」は、後に「黄梅院」と大きくなるんですが、
そんな風にもり立てた人は、秀吉と小早川隆景だったらしいですね。
その後ずっと近世も、こちらは毛利家の保護があったそうで、
小早川隆景公と毛利家の墓所があるようです。
黄梅院を入ってすぐにこんな碑が…↓。

oubaiin.JPG

一番右が、
『萬松院殿 織田信秀公霊所』
その左隣が、
『洞春寺殿 毛利元就公家一門霊所』
(広島県安芸高田市の洞春寺にも墓所があるらしい)
そして、
『小早川隆景卿墓所』
(一説には、黄梅院には隆景夫妻のお墓があるとも。
隆景の墓所は広島の米山寺にも。)


そしてそして!。
この写真の一番左!『蒲生氏郷公墓地』ってなってるでしょ!。
そうなんですよ…。
政宗公のライバルで早世した氏郷さんのお墓!。
因に、福島県会津若松の興徳寺にもお墓があるみたいなんですが、
あちらには遺髪が納められているそうで、
黄梅院の方に氏郷さんは眠っていらっさるようです。

でも…お墓はみんな非公開。


今春公開されていて、オイラが見る事ができたのは、
現存する日本最古の禅宗寺院の庫裏(隆景寄進)や、
名高いお茶室(利休の師:武野紹鴎作「昨夢軒」)、
そして…千利休が作ったという美しいお庭。

京都のお寺のお庭は…、
本当に手入れが行き届いていて凄いですね。
なんていうか…苔の先まで美しいというか。

利休といえば利休七哲。
蒲生氏郷がここに眠っているのは…、
そういう繋がりからなのかも…とちょっと思ったり。

あーだけどさ。
蒲生氏郷はキリスト教徒だったですよね。
洗礼名はレオン。
どうなんだろう…。
御本人としては死後の事だから、とやかくは言えないけど、
本当は教会に埋葬されたかったんじゃないか…とか、
そんな考えもふと頭をよぎったりしました……。
posted by 夏草 at 00:14| Comment(0) | お寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする