2013年04月08日

政宗公をめぐる女系家族 〜晴宗の娘たち2〜

親戚だらけの奥州事情。

今日は、一昨日の大乗院(阿南姫)に引き続き、
蘆名と伊達の抗争に巻き込まれた、
晴宗&久保姫に縁のもう一人の女性について。

それは…晴宗お祖父さんの四女/彦姫です。
系図にもあった通り、彼女は大乗院の妹で、
最終的には大乗院の息子:蘆名盛隆の正室なのですが。

この人は最初、
どうも…実兄である輝宗さんの「養女」という形で、
(つまり「輝宗の娘」という形が収まりが良かったんでしょうね)、
蘆名盛興へ輿入れしたらしいのですが、
盛興が29歳で(原因は酒毒とも)嗣子無く没した後、
二階堂家出身の盛隆が蘆名家当主となり、今度はその正室となるんですよね!。
これによって蘆名家は家中を固めた…という感じでしょうか。
ここも伯母甥の結婚という事で、近い関係者の婚姻ですね。

この後、
盛隆は弱冠23歳で家臣に殺され、
(美男であった盛隆は衆道関係のもつれから、
これまた美貌の寵臣:小姓の大庭三左衛門に殺害されたという話が有名ですが、
最近読んだ所では、
盛隆殺害は政宗公の黒脛巾組の仕業という、うがった説も)。
(まさか…大庭三左衛門が…黒脛巾組??…)←いやいやこれはオイラの妄想w
そして、嫡男:亀王丸も3歳で病死してしまい、
結果、
当時蘆名家へ発言権を強くしていた佐竹家から、
義重の次男:義広が養嗣子として送り込まれて来る事に。
(因にこの義広の正室も蘆名盛興の娘:小杉山御台という女性で、
この人が盛隆の養女になって、義広に嫁いだ事になってますね…。)

更に更に言うと…、
この彦姫の妹(晴宗五女):宝珠院が佐竹義重の正室なんですよね!!!。
つまり、
阿南姫/大乗院ー彦姫ー宝珠院は全員、同一父母、実の姉妹という事に…。

くはっ。

当事者の姫達も…当時は自由恋愛&結婚なんて無かったとはいえ、
ホントにもう大変だったですね!。
有名所ではお市の方や旭姫もそうだったけど…、
覇権・利権のための政略結婚だからって、
次々あっちからこっちへ…なんて…、
人間そうそうなかなか、心の切り替えって難しいですよね…。

でもそれしか生きる道が無かったと…。
本当に当時の女性は芯が強く無いとやっていけないですね…。



そして、
この一連の血縁関係・婚姻関係は、何回見てもこんがらがるよ〜〜〜〜www。
政宗公も時々分んなくなってたり…しないか…www。

そういえば、
かの小田原参陣の時、
「来るのが遅い」と箱根:底倉に押し込められた政宗公、
秀吉に一連の問答の中でこう言われたらしいですね。

『(奥州で)政宗に敵対しているのは、全て政宗の肉親親戚だ。
政宗は肉親親戚全てに見捨てられ、
隣国に一人も心を合わせたものがいない。
これは甚だしく不審なことだ。』

そんな事言われてもwww。

肉親全てに見捨てられてるってか…周りみんな親戚だから、
そこで戦うって事は…必然的に「そんな感じ」になっちゃうよねwww。
ホント、長い歴史のある伊達家だし、
稙宗さんからやらかしてるしw、
「俺の周りの何処に血縁で無い世界があるんだよ!」って、
政宗公だって言いたいよねwww。

一代で立身した太閤秀吉とは、ここら辺も相当対象的ですね…。

政宗公も実際これには、
「あそこもここもみんなうちの身内だけど、
長年小競り合いもあるし争ってるし。
皆の悪企みにあってるのは寧ろ、この政宗ですよ!」と応えたらしいですねw。

それにしても、いつも思いますけども、
奥州の状況は真にこんな…複雑な条件下にあった訳ですね。
ここから天下を狙いに行った政宗公。
こんな状況ですから、数多の親族から憎まれたと思いますが、
意外とホント最初の頃のこのような連戦こそが、
いろいろなしがらみを勝ち抜いて行かなくてはならなかったという意味で、
政宗公にとっても精神的に一番厳しかったかもしれませんね…。
posted by 夏草 at 00:41| Comment(0) | 南奥州戦記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月06日

政宗公をめぐる女系家族 〜晴宗の娘たち1〜

長らく間あきましたが…、
めでたくこのシリーズも復活でございます(ふっふっふ!。

今回の主役は…阿南(おなみ)姫/大乗院(1541〜1602年)です。

彼女は…そうなんですよね、政宗公の祖父:晴宗の長女で、
輝宗パパの直上のお姉さん。
つまり…政宗公の伯母上という事に。


因にこんな感じでしたよね、系図的には↓。

「伊達晴宗&久保姫の子供たち」

男系>>
長男:岩城親隆(=常隆の父)、
次男:伊達輝宗、
三男:留守政景、
四男:石川昭光、
五男:国分盛重、
六男:杉目直宗(福島県杉目城主)。

女系>>
長女/阿南(おなみ)姫:二階堂盛義室、大乗院
次女:伊達実元室(=成実のお母さん)、
三女/益徳姫:小梁川盛宗室、
四女/彦姫:蘆名盛興室→後に蘆名盛隆室
五女:佐竹義重室、宝寿院

で…順番としては。
親隆→阿南姫→輝宗→次女→益徳姫→
留守政景→石川昭光→彦姫→五女→国分盛重→杉目直宗…の、
六男五女。


で。
「摺上原の戦い:天正17(1589)年」の時のこと。
会津磐梯山付近で伊達政宗と蘆名義広が激突、
これが御存知、事実上の南奥州の覇権を決める一戦だった訳で。

そして。
言うまでもなく政宗公がこれに勝ち、会津:黒川城へ入って、
仙道(せんどう=福島県仲通り地方)に残る反伊達勢力の掃討を始める。
まずは、
白川義親を帰属させ、次は須賀川の二階堂氏を討伐する事に。

しかし二階堂氏は、
この戦の8年前に18代:盛義が没し(享年37歳/異説あり)、
次いで7年前には19代:行親(ゆきちか)が早生しており(享年13歳)、
「摺上原の戦い」当時の須賀川城主は…、
盛義(=18代当主)の未亡人の大乗院(阿南(おなみ)姫)だったと。


政宗公は伯母上に投降するよう書状を届けたらしいのですが、
今や、二階堂家の女性として生きる大乗院は、
とうてい聞く耳を持たなかったらしい。

というのも…摺上原で政宗公に滅ぼされた名門:蘆名家ですが、
この時の当主:義広(=佐竹義重の次男)の前代の当主:盛隆は、
「二階堂盛義と大乗院との間に出来た息子」だったですよね。

蘆名盛氏の脅威の前に、
二階堂家は一時、息子:盛隆を人質として差し出したんですが、
盛氏の後の盛興が嗣子無きまま急死したため、
突如、二階堂家の息子が蘆名家当主になったという…。

しかしその後、
この盛隆もまた早生し(寵臣に殺されたんですよね)、
佐竹義広の次男:義広が蘆名家に入る…という運びになり、
そこから摺上原の戦いへ…という流れなようですね。


大乗院から見れば、
甥っ子(政宗公)は自分の息子家筋をぶっつぶしてくれるわ、
自分家へも攻めて来るわ…、
恐ろしいやら腹立たしいやら…という気持ちだったのでは。

そして、
家臣や城下の民は「政宗へ徹底抗戦する」という決意を固め、
手に手に燃え盛る松明を掲げ、東郊の丘(とうこうのおか/現:十日山)に集結し、
「須賀川城を守り抜こう」と大乗院ともども決起したそうな。
(これが後の「須賀川松明あかし」の紀元という事らしいです)

須賀川城は結局落城してしまうのですが、
その時、大乗院は拘束され側近は殺害されたらしい。
囚われの彼女は、政宗公の用意した食事には手をつけず、
持参した袋の米で飢えをしのいだり、
「伯母上のために館を作るのでそこへお出で下さい」との申出も頑として断り、
岩城氏の養子になっていた弟:親隆の元へ結局身を寄せ、
更には、
政宗公と敵対関係にある佐竹氏の常陸へ行ってしまったらしい。

後年、
佐竹氏は「関ヶ原」に参陣しなかった咎で秋田へ移封となり、
これに同行の途中、
偶然なのか…はたまた思い詰めた心が通じたのか、
大乗院は須賀川で病を得、そのまま帰らぬ人となったそうな…。

そして更に意外な?話は…次回☆。
posted by 夏草 at 01:59| Comment(0) | 南奥州戦記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

政宗公、伯父・叔父たちの系譜5 〜留守政景3〜

今日はまた…政宗公の叔父様:留守政景さんのお話です。

つか…そのつもりなんですけどw、
実はここをどう書こうかって…長い間悩んじゃってw。

何故悩んでいたのか!!!。
それは…今回のブログを読んで下さると…分っていただけると思いますv。



前回まで見て来たように、政景さんは、
すぐ上の実兄:輝宗公をよく補佐していた訳ですが、
伊達家が政宗公の代になっても同様に、
若き頭領である甥に力を貸したのでありました。


まずは。
政宗公にとって、
伊達家にとって、大きな意味のあった「人取橋の戦い」で、
政景叔父さんは大いに力を振るいましたよね。
政宗公の軍勢が7,000〜8,000と言われ、
その三倍は居たという敵方の攻撃を阻止したという…あの歴史的戦いで。

この戦、
しかし考えてみると(考えてみなくてもw)、
伊達家に対する敵方:佐竹&蘆名連合軍の中身には、
輝宗パパの実弟にして、
政宗公にとっては、
政景さんと同じ叔父である石川昭光(=佐竹義重の婿)が居たり、
血のつながってる従兄弟:岩城常隆(=常隆の父:親隆が輝宗実兄)も居たり、
更には、
佐竹義重も義理とはいえ叔父(=義重室が政宗公の叔母)だし、
なので、佐竹義宣は血のつながった従兄弟だし…、

ホントに東北特有の例の「洞(中)」ってものが、
こんなにこんがらがった様相を招いていたという事になりますね。


そんな…どっちを向いても親類縁者な、
ややこしく、それゆえに白黒つけにくい関係性の中、
政宗公はもうこの時、この若さから、
しがらみを断ち切る戦をどんどん行っていった訳で。
それまでの奥州の秩序を明らかに変えて行く道程を進んだ訳で。


そして、
留守政景叔父さんは…ずっと最初から、
そういう政宗公の味方だった…若き独眼竜を支えた訳で。

これは…政景さんの政治的腹の括りが凄かった、
と言えるのかもしれませんが、
寧ろやはり…政景さんは政宗公の事を文字通り「後見人」として、
輝宗公並に実は「父親的な心や目線」で甥を見ていたのかもしれない…と、
自分は想像したりしています。

というのも…政景さんという人、
良くも悪くもかなり情のある人だったんではないか…とも、
大崎合戦の時の出来事からつらつら思っているんですが。




天正16(1588)年、
大崎氏の内乱へ政宗公が介入したあの話です。

この時、大崎を平定する伊達軍大将に政景さんが就くんですが、
実はもう一人、
泉田重光という家臣も、政宗公から大将をやるように言われます。
つまり、この戦には伊達軍の先鋒大将が二人居た、という事で。

元々政景さんと泉田さんの仲はあんまり宜しく無かったそうで。
なんでも、泉田さんの奥さん家の家督相続に関して、政景さんに意見があり、
二人の意見は合わなかったという理由らしい。
(↑ココ、実はあんまりオイラ分って無いです。
詳しく分ったらまた補足しますねv)

で、
政宗公はそんな二人を協力させようとして、
敢えて二人大将にしたらいしんですけども、
これがもう…全然上手く行かなかった。

政景さんは結構慎重派だったらしいんですが、
それに対して、
泉田さんは「政景殿は腰抜けか!」的な態度で、強引に兵を進めたと。



それというのも、
この大崎合戦にも「洞」みたいな話が介在しておりまして。

伊達軍の進軍先には、
黒川晴氏(月舟斎)という武将のお城、勢力圏があったんですが、
この晴氏さんって…元々は大崎氏の一族なんですね。
しかも彼、政景さんの岳父(=娘は政景室)なんですよね。


だからっていうか、
政景さんの侵攻は確かに慎重だったらしいんですけど。
そして、黒川晴氏さんも当初は伊達側だったので、
伊達軍の侵攻時には動かなかった(黙認していた)らしいんですが、
泉田さんはそこを厳しく…どんどん敵陣(大崎)へ突っ込んで行った…。

しかしとうとう情勢は急変!、
なんとなんと黒川晴氏が突如伊達軍を攻撃して来た!!。

黒川氏としてはこれはこれで、
大崎と伊達のパワーゲームの間で、
自家の存続をはかるためにとった行動だったらしい。

だって黒川さん家も大変なんですよ。
黒川晴氏のお祖父さん(=景氏)って、
伊達一門の飯塚氏から入嗣した人らしいんですよね。
つまり…この代は伊達氏寄りだったと。
でも、
晴氏の時には大崎義直の娘を嫁さんに貰い、
義直の息子である大崎義康を養子にまでしてます。

だから…黒川晴氏さんも、
黒川家の将来を考えると舵取りは難しかったんじゃないかと…。



しかし!この結果、
伊達軍は、大崎軍と晴氏の軍に挟撃されるわ、包囲されるわ、
もう大変なピンチに。


そう!これがアノ!「大崎合戦/泉田重光人質事件」の経緯ですね。
にっちもさっちも行かなくなった政景さんの懇願を受け入れ、
岳父:黒川晴氏さんは泉田を人質とし、
代わりに伊達軍は撤退を許された…という、アレです。


ちょと話は回りますが、
この時、泉田と同じく長江勝景(月鑑斎)という武将が、
黒川氏へ人質に出されております。
この人、なんなのかというと…、
葛西晴信の妹を室としており、
相馬義胤へは姉妹が嫁(側室)に行っている…という人で。

つまり、
葛西晴信からも、相馬義胤からも「義兄弟」ですね。

葛西氏は御存知のように、大崎氏とは長年抗争が続いていて、
この時は伊達と同盟中…つまり反大崎だったようで。
だから葛西側からいうと…長江月鑑斎は文字通り人質ですね。

で、相馬義胤の場合は逆に、
相馬氏は大崎や最上の味方についていたらしいので、
長江勝景が人質になるという事は…、
相馬氏がむやみに黒川氏に手出しできない状態となった…という事でしょうか。


(う〜んだけどさあ、
この相馬義胤公もね、
正室は政宗公の曾祖父、御存知稙宗公の娘だから、
政宗公から言うと…義理の大伯父さんかナニカにも当たる訳っすよね???。
↑もう訳分らんです、ええ、関係なんてっwww)


そしてそして。
因に、最上家って…元々は斯波家からって事なんですが、
大崎氏が元々斯波家から出て、
その大崎氏の一族が最上さんなんだそうですね!!。

あとね、
最上の伯父上の正室って「大崎殿」でしょ!。
そうなんですよ…大崎義直の娘らしいです、彼女。
だから、
黒川晴氏と最上の伯父上も親戚関係強化って事になりますよね。


ホントね…書いてても…なんだかもう頭ぐるぐるなんですけどw、
そういう訳で、
政治的にも血縁関係のしがらみ的にも、
大崎合戦は非常に大変な一戦だったのは間違い無いかと。


で、ですね。
この後…長江月鑑斎は早々に解放されたらしいんですが、
泉田重光は送れる事半年、やっと帰還を許されたそうです。
その辺りの風景は大河ドラマでもやってましたね。
大喜びの若き渡辺独眼竜と、老将高品格さんの重厚な演技が思い出されます。

泉田重光はその後、「葛西大崎一揆」で、
伊達家の影の暗殺者:屋代景頼(勘解由)と共に、
一揆の主力を謀殺した…というコワい話もあるようで…。



……と、大幅に話はまわっておりますが(たはは☆、
そんなこんなで…ここらで、
留守政景叔父さんの話題に戻りまして…(ぇ。

政宗公は「黒川晴氏憎し!」な気持ちがこの後も止まなかったようで、
秀吉の小田原参陣に来なかった咎により、黒川氏が改易された時、
ここぞとばかり、晴氏を殺そうとしたらしいのです。

が、

政景叔父さんが「殿!そこをなんとか」と取りなし、
岳父を庇護して余生をおくらせた…という事なのでございます。


そうなんですよ、
こんな血で血を洗うような戦乱の中で、
黒川晴氏さんも魅力ある人だったのかもしれませんが、
留守政景叔父さんも恩義を忘れず、
血気盛んな奥州の暴れ竜に対し、妻の父を守ったという…。


享年は…58歳くらい。
法号は雪斎。
なにか…とても政景叔父さんらしい法号に思えます。

関ヶ原の戦いを終え、世は徳川時代を迎え、
仙台藩も誕生し、甥の名声は天下に不動となっていた頃、
政宗公の…或は父代わりであった叔父様はこの世を去ったのでございます…。


政景叔父さん…どんな一生でしたか?。
暴れん坊な甥の後見も精一杯やったし、
ホントーーーにやれやれと思っていらっさるかもしれませんね。
posted by 夏草 at 20:49| Comment(0) | 南奥州戦記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする