2016年12月23日

毛利勝永、ここにあり! 2 〜毛利勝永って…実は通称?〜

だいぶ間が開きましたが、毛利勝永の第二回でございます。


実は第一回を書いた後、
毛利勝永について書かれた本(小説ではなく歴史評伝)が、
今春出ていた事を知りまして。

それは。

「真田より活躍した男 毛利勝永」 
今福匡著  宮帯出版社

装丁もね、表紙を返すと…毛利勝永の旗印になってる!。
ホントに毛利勝永一人に焦点を当てた評伝って、
自分が寡聞にして知らないだけかもしれませんが、
全然無いんですよね。


で、
今回のソースはこの書籍と、
例によって、
当グログが「腐」なのでリンク貼るとかご迷惑なのでできない、
某超有名歴史サイト様とか、
雑誌『時空旅人/大坂冬の陣夏の陣400年』、
他、小和田哲男先生の本とか…色々と。



今回は少しもどって、
大坂の陣に参陣する前までの毛利勝永をめぐるお話です。


まず、
そもそも…この「毛利勝永」という名前なんですが。
なんと…「勝永」という諱は一次史料では確認できてないらしい。
発給文書その他でも署名は「吉政」で、
家臣からは「吉永」と記されている場合もあると。

そして、
政治的な局面には結構早くから登場し、
公的には「毛利豊前守」という風には称しているらしい。
それでも…幼名なども分からないそうで。

では姓の「毛利」の方なんですが…、
これは以前うちのブログでもやりましたが、
<「森」から出た「毛利」>説がここでも出現。

(詳しくは…こちらを
 ⇒『なに!!お主も、か!w』
 http://ikiikien.seesaa.net/article/174492067.html


毛利勝永の父は森吉成といい、
尾張か美濃か近江か…その辺りの出自では無いか?と、
(でも断定はできないと)今福さんは書いている。

で、
この「森壱岐守吉成(一説には勝信)」なんですけども…、
なんとなんと…、
森三左衛門可成の嫡男:吉光が、この森吉成の父である!、
という説があるらしいんですよ!。
(今福さんの本によると
『吉成&勝永の子孫という高知県の森家家伝」より)

え?…でもこの記述で行くと…、
「森吉光」って「森可隆」と同一人って事になるよね???。
という事は…毛利勝永父は、森長可、成利(森蘭丸)、忠政らの長兄って事に!。
という事は…毛利勝永は、森長可、成利(森蘭丸)、忠政らの甥って事に!。
うーーんんこれがホントなら凄い話だがw、
本当の所は…現在やっぱり全く確証は無いらしい。

というか、この話の異説としては、

「森三右エ門は信長公の家臣で、後に毛利壱岐守と名乗る。
秀吉公の代に豊前小倉城主に成り。
根本美濃土岐の末の由。壱岐守惣領豊前守…」
(同じく今福さんの本中『稲葉氏由緒問答禄』より)とあると。

この<「惣領=長男」が豊前守>の所はまさに、
毛利勝永の事だと考えられますね。
しかし…「森三右エ門が森三左衛門可成」なのか?。
(確かに可成はノブ様の家臣ですけどね)

いやいや…これもね、
なかなか判別するのが難しい話なんです。
というのも、
織田には確かに「森三右エ門」という家臣が居たらしい。
居たらしいが…これは「森三左衛門可成」とは別人じゃないかと、
今福さんは書いている。
そしてこの『稲葉氏由緒問答禄』も、
江戸中期に臼杵藩の稲葉氏から出たもので、
そういう事から考えると…色々錯綜した内容かも、と。

ホントにね、
昔の事というかなんというかは…、
名前が似てる人を同一人と混同したり、
逆に文字を間違えて(置き換えて)いて…同一人を別人としてしまったり、
或は時代が下った頃に書かれた文書故に事実と違った記述だったり、
しかし逆に本当の事だったり…、
いろいろこの辺を探って行くのは大変で、
傍証が無いとなかなかハッキリ断定できないよね。
(でもそれだから調べるのが面白いんだけどw)


で、
勝長の父:森吉成は秀吉の黄母衣衆だったそうで、
その後もずっと秀吉に仕えており、
九州攻め参陣の後、豊前に所領を与えられて入るにあたり、
秀吉に「森から毛利へ」と改姓を促された…とも。
西国では「森」より「毛利」の方が通りが良いだろう、という理由とか。

しかし一方で、『陰徳記』では、
森吉成が「元々私の姓は森と書いたが、
吉川広家殿を通じて毛利輝元様にお願いし、毛利の字に改めた」
と言ったと記されているそうな。
これも全然確定できない、所謂逸話という感じらしいのですが、
とうの「毛利家周辺」ではこんな言い伝えになっているらしい。

という事で。

「毛利勝永」という名は(「真田幸村」同様に)、
通称というか、一般的に世に有名な名前という事に。
(真田も毛利も姓は本当の姓ですが)


もう一つ、ビックリする話としては、
毛利勝永と大野治長が従兄弟同士であるとする説がある事。
なんでも、
『南路志/なんろし』(土佐の歴史や地理、民族などを多岐に渡って取材編集した資料)に、
「勝永の家老の宮田甚之丞、その兄弟の宮田平七、
そして大野治長は勝永の従兄弟である」と書かれていると。
つまりこれ、父:吉成の妻が大野氏か宮田氏の出ではないか?と。
まあでも…これも「確かめられない話」なんですが…。

(因に、毛利勝永が何故土佐に関係あるかというと、
この記事の第一回にも書いたように、
勝永は(父:吉成とともに)関ヶ原の後、
山内一豊に預かりになっていたので。
元々山内家とは知己同士だったらしいし)


で、一方、
大坂の陣の前まで、毛利勝永はどういう人生だったかというと…。

吉成と勝永は上述のように秀吉麾下にあった事から、
勝永も豊臣政権の面々とは早い段階から顔見知りであったと、
今福さんは推測している。


で、ですね。
更に彼の家族について言及しますれば…。

前回、
「大坂入りする決意を妻に語った勝永の逸話」を紹介した、その「妻」、
<正室:安姫>は、この時には既に他界しているので(1610年没)、
前述の話は彼女では無い女性に向けての発言なのか、
後世に作られた「そういう逸話」なのか…という所らしい。

安姫は龍造寺家の娘という事で、
毛利勝永との婚姻も、地元勢力の懐柔と繋がりの強化、
(秀吉の九州攻めにも勝永は参加している)
という側面があったと思われると。

で、九州攻めの後で小倉に入城、その後の唐入りにも従軍。
関ヶ原では鍋島家等とともに西軍となり、
伏見城の戦いにも参陣の後、大一番にて…西軍の結果は御存知の通り。
で…毛利吉成・勝永は改易となって山内家に預かりとなる…と。

ざっと見て来ましたが(ホントにザッとだ^^;)、
色々と彼の発給した文書は残ってはいるみたいなのだけど、
やはりそう多くは無く、よって断片的にしか人生も分からないため、
なかなかに謎のままの人なのですね。

そして次回はやっと!、
毛利勝永の大坂の陣での活躍について、でございます。


☆関連事項☆

『毛利勝永、ここにあり! 1 〜いざ!大坂城へ〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/437705438.html

『毛利勝永、ここにあり! 3 〜龍造寺&鍋島と〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445362485.html

『毛利勝永、ここにあり! 4 〜大一番!大坂の陣〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/445713893.html
posted by 夏草 at 01:38| Comment(0) | 歴史の周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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