2011年05月24日

「竜の兄さん、俺の孫を頼むぜ!」 byアニキ  〜2〜

当ブログの、
『伊達騒動 〜『BASARA樅ノ木』な話!〜』という項目、
(⇒史実上のアニキと政宗公の意外なつながりについての話)
読んだ方から先日コメントいただきまして↓。


『寛文事件(世に言う伊達騒動)には、
長宗我部元親の曾孫娘も関係があるけれども、
それで言えば、幸村の孫に政宗の血も入ってるかもしれない』

(詳しくはこちら↓。コメント欄も御覧ください)
http://ikiikien.seesaa.net/article/141794398.html


そうなんです!。
そういう可能性はあるんですよね…。


因みに、
柴田外記については、前に一度書いてみたのがありまして。
(すっかり忘れてたよ…トホホ)↓

『「竜の兄さん、俺の孫を頼むぜ!」 byアニキ 〜1〜』
http://ikiikien.seesaa.net/article/142157563.html


で、
柴田外記の周辺について、この項を書いた後分った事もあり、
せっかく詳しいコメントも戴いたし、それも含めて今日は再び、

「元親公の血筋で仙台藩士となった柴田外記」についてでございますv。

(前のアニキ記事を「1」と直して、今日は「2」という風に続けてみました)


さて、本題へ。

柴田外記朝意は元々は、
長宗我部元親公の「孫」という説と、
更に…「ひ孫」という説とがあるらしいんですよね。

それはどういう事かというと、
外記の両親が「誰なのか?」という所がポイント。

a説)「父は元親公の重臣:佐竹、母は元親公三女:阿古姫」
b説)「父は元親公の四男:盛親、母は元親公の嫡男:信親の娘」


これからちょとややこしいのでw、図を作ってみましたv。

sibatageki.jpg

携帯はこちら☆⇒http://sorekaraaozora.web.fc2.com/mohmmkanbun.html


因に、
長宗我部元親公の御子孫だという方の文章を拝見したんですが、
こちらでは(a)の「阿古姫説」が採用されていまして。

そして、
b)は…伯父と姪の結婚という事になりますね。
当ブログにコメント下さった方も、この説を書いて下さった訳で。

でもこちらだったら…大事な信親を戸次川で失った元親公の、
痛恨の思いが生んだカップルなのでしょうか…。
……切ないですね…。
で、柴田外記が(bカップル)の子供だとすると…、
外記は「元親公の孫であり、ひ孫である」と。

ややこしいや〜♪。


で、更に。
外記の幼名なんですが。
「仲三郎」と「忠次郎」とあるみたいなんですよね…。
どっちがホントなんだろう…つか、
両方時期を違えて名乗っていたのかな?。
これはまだ自分的によく分らない所です。



で、更に更に。
もっとBSR的に話が大きくなって行くんですが。
今度は幸村も1枚噛んで来ますv。


真田信繁の次男:真田大八(大八丸)が姉阿梅らと共に、
伊達家に匿われた訳ですが(この時、姓は片倉)、
その大八の息子:長七が、
外記とは伯父&甥の関係だという話があって。

え?。
ちう事は!大八さんの姉妹が外記と結婚したか、
外記の姉妹が大八さんと結婚したか、ですよね!。
(確か…真田さん、何人か姉妹が大八と一緒に片倉家に保護されてる)
しかし、
大八さんの姉妹は外記に嫁いだ話は聞かないので、
外記の母=元親公の娘もしくは孫が、政宗公の側室になり、
その娘が…「大八さんの妻!」という事ですよね。

そうなんですよ…。
真田大八の嫁さんはアニキの関係者だって、
昔聞いた事もあったし。

すると。

この……真田長七は理論上!!、
アニキと政宗様と幸村の血を継いでることにっっ!!!。

おおーーー。
なんか凄い…BSR頭に衝撃がw。
あ、でもこれもあくまで「説」なので、
そういう説も成り立つという事で…。



そして。
この、アニキの血筋の政宗公側室なんですが、
名前は「中将」だったと、
柴田家記録(『柴田家歴代略記』)にはあるらしい。

一方、「中将」って女性から、
政宗公は乞われて自筆の書を進呈してるんですよね。
政宗公は生前から能筆と評判だったそうで、
皆が書を欲しがった…という事からの流れらしい。

これは佐藤憲一さんの『伊達政宗と手紙』に出てる話なのですが、
(大崎八幡宮の『仙台・江戸叢書12』の方です)、
中将殿は「侍女」とされていまして…。


二人の女性、同一人物なのか…違う人なのか。

中将なんて名前はありふれてるんですかね…???。
官位から来てる名前だけど、呼び名だったら、
複数の人につけるかもしれないし。
だけど、
「政宗公の筆が素晴らしいので、1枚欲しい」という話だから、
近しい人でないと流石に殿様にはお願いできないと思われ。
如何にも親しい側室からの所望なのか、
それとも、
気心の知れた教養ある侍女からの所望なのか…、
こちらも、なんだかとても気になる逸話でございますv。


*その後の改訂付記*
2012年2月、
『素顔の伊達政宗 筆まめ戦国大名の生き様』佐藤憲一著(洋泉社)
という本が出ました。
これは、当ブログ中引用させて戴いた、同じ佐藤憲一さんの、
『伊達政宗と手紙』(大崎八幡宮『仙台・江戸叢書12』2009年出版)に、
だいぶ加筆されたものです。

ここに…こうありました。

「中将殿は長宗我部元親の娘。
頭が良く教養があり弁も立つので、政宗に信頼され晩年まで近侍し寵遇された。

息子は忠二郎といい、政宗の小姓となった後、
伊達家重臣柴田家を嗣いで、
登米郡米谷(とめぐんまいや/現宮城県登米市)領主となった、
柴田外記朝意(1607〜71)である。外記は奉行も務めた。」

という事で、
「側室中将殿」は「侍女中将殿」と同一人物と判明!。
posted by 夏草 at 13:13| Comment(13) | 歴史の周辺/伊達家関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
外記の名前に関しては
於輪→仲三郎or忠次郎→朝親→朝意という順で改名したそうです。
外記の長女がおりん、次男の氏親の幼名が忠次郎なのは父の幼名が由来だったのではないかと思います。

「伊達騒動実録」では、外記の甥が長七となっていますが
「仙台真田代々記」では、外記の兄の娘が大八の正室なので
どちらの説を取っても真田氏と長宗我部氏が縁戚同士だったのは間違いないかと思います。
あと、外記の長男の母親は綱元の孫で原田甲斐の従妹になるそうです。

阿古姫は盛親の姉なので、年齢的に信親の娘の方が合う気がします。
Posted by 胡蝶 at 2011年05月24日 16:27
>胡蝶様

こんにちは。
コメントどうもありがとうございます!。
とてもとても詳しく書いてくださって、
ワクワク読ませて戴きましたv。

外記の名前の変遷…男子で「於輪」って珍しいですね。
何か謂れがあるのか…これも調べてみたくなりました。

それから「外記の兄の娘」!…そして「綱元の孫」…。
いろいろ込み入った事になってるんですね、この辺りも!!。
いやもう、知れば知る程…凄い面白い♪。

外記のお母さんが信親公の娘だとすると…、
ホントに外記はもう血の濃い長曽我部男子だったんですね…。

そういえば。
この寛文事件で伊達宗勝は…土佐に流罪になったんでしたよね。
土佐は当時、
そういう位置づけの国だった事もありましょうが、
なんだか…いろいろと縁を感じますね。
Posted by 夏草 at 2011年05月24日 18:42
宗勝の配流後の生活は使用人も沢山いて、暮らし向きは良かったとされていますが
側女との間に出来た子は罪人の子ということで産まれてすぐ殺されたとも聞きます。
高知にある彼の墓は大きくて立派なものだそうですが。

宗勝には、政宗に抱っこされていた時にお漏らしをしたため
「親にこのような事をする子は家に祟る」と言って、投げ捨てられたという逸話があります。
「岐嶷として凡ならざるを見て、児小姓として眷遇」された外記とは対照的で、因縁を感じますね。

それと、最初の方で書き込み忘れましたが外記の長男の名前は宗意といいます。
Posted by 胡蝶 at 2011年05月24日 23:53
>胡蝶様

おはようございます。
コメントまたありがとうございます!。

宗勝と政宗公のこの逸話、私も読んだ事ありますが、
真実だったとしたら、なかなかに切ないですね…。
頑是無い幼子なだけだったのに。

自分は外記の代くらいまでしか、調べた事が無かったので、
おいおい外記の子供たちについても知りたいと思います☆。
勉強になりました。
Posted by 夏草 at 2011年05月25日 10:09
お邪魔します。
大八正室が、外記兄の女とありますが、外記の上の男兄弟は、大阪の役で全員死亡しているので、可能性は低いと思います。
何故なら、長七の出生年が1656年なので、その母親の推定出生年を逆算すると、1620年以前はあり得ないからです。
と言うのも、三代家光以降、大奥の三十過ぎたらお褥辞退の風習が、一般武家層に浸透するため、長七の出生年を勘案した場合、母親の推定出生年が、上の年代以降となるのです。
以上より、大八正室は、外記の異父妹だと思います。
Posted by 奈々 at 2011年07月15日 01:51
>奈々様

こんにちは。
コメントをまたありがとうございます!!。

なるほど!。
自分は外記の周辺については、余り詳しく無いんで、
皆さんのコメントをどれも興味深く拝見してるんですが、
年代的な事から考えるのも大事ですね!。

皆さんから詳しいコメントをいただけて、おかげ様で、
色々と分って来て…ブログやっててホント良かったですv。
今回も勉強になりましたv。
Posted by 夏草 at 2011年07月15日 09:25
重ね重ねですが
「仙台真田代々記」には、外記の姪が大八に嫁いだ時点で長七は産まれており、長七は妾腹(母親の詳細は不明)だという説があげられていましたが、それだと大八は五十代になるまで妻帯してなかったことに・・・

この辺りが史料によって異なるのは、大八を信伊の孫としたように幕府に憚って作成した虚偽の情報が後世に伝わったからではないかと考えています

「伊達騒動実録」は古い本で、安芸派寄り(兵部派は悪人ではなく、旧体制の藩を改革しようとしただけという話も聞きます)であるものの、信憑性は高いので大八の正室=外記の異父妹で間違っていないと思います
そうすると、大八には非凡な容姿の義兄が二人もいることになりますね。うらやましい(笑)

冗長で受け売りの知識ではありますが、藤青様に喜んでいただけたら嬉しく思います
Posted by 胡蝶 at 2011年07月15日 21:05
>胡蝶様

詳しいコメントをまたありがとうございます!!!。

うわ〜外記、スゴいですね…いろいろ説があるヒトなんですね!!。
なんかホント歴史って…やっぱものっそ面白いですね!!。

え?でも、長七が妾腹って事は…、
彼は正室(長宗我部系)の子供じゃないって事…ですよね??。
そうか…そういう展開もありかあ…w。

でも…そうですね、仰るように大八丸関係については特に、
当時の記録、いろいろ本当の事とは違ってる場合ありますよね。
そもそも、
大八丸も京都で礫合戦(印地打ちというらしいですね)で死んじゃった事にして、
徳川に報告してますもんね、伊達家はw。

だから…そういう錯綜した部分が(故意で無い場合も含め、
記録として整理統合されてないで残ったのかも。
ああでも、それをキチンと確かめようとするのは…ヤボかなあw。
遠い歴史のロマンという事でもいいかな…(ふっふっふ。

だけど…やっぱ知れるものなら…知りたいですねwww。
なにしろ…ここは兄貴と政宗様と幸村が関係してるしね(わっはっは。

今回もとっっっても興味深いコメントをありがとうございました!。
とても楽しかったです!!!。
Posted by 夏草 at 2011年07月17日 00:05
お邪魔します。
私は、[仙台真田代々記]を未読なので、読んでいる方の意見は、参考になります。
これはあくまで、想像にすぎませんが、大八正室=長七の実母ではなくとも、長七の実母=大八の妾の可能性は、低いと思います。
そもそも、真田大八を伊達政宗が匿った真相は、真田幸村が、公家の血を引いていたからです。
これは、片倉氏の血を引く政宗子孫である堀田正敦が、編纂総指揮を勤めた[寛政重修諸家譜]で、幸村実母を菊亭晴季女としていることから、間違いないです。
それに大八の甥は、伊達氏遠戚の亀田藩主岩城重隆なので、伊達氏の扱いは軽くなかったはずです。
多分、長七誕生後に大八に嫁いだ女性は、長七実母と血縁にある、後妻だと思われます。
昔は、奥さんが亡くなると、奥さんの妹や姪を、後妻にしていたから、その線もあるでしょう。

Posted by 奈々 at 2011年08月16日 14:37
>奈々様

こんばんは!。
また詳しいコメントありがとうございます。

それで…、
すみません、少し質問してもいいですか?。

『大八正室=長七の実母ではなくとも、
長七の実母=大八の妾の可能性は、低いと思います』の所のですが、


「長七の実母は、父;大八の妾(側室?)の可能性は低い。
大八の正室は、長七の実母ではなく、その姉妹だ」

という事でしょうか…。
それとも…理解が全く違ってたらごめんなさい。


それで…この菊亭晴季の娘さんの件なんですけど。
信繁の実母:山手殿が、
このかなりハイクラスの御公家さんの出だというのは、
ちょと無理があるんではないのか…?、
という説をちょと読んだ事が。

というのも、菊亭さん家は、
武田信玄の正室の三条夫人の実家:三条家と同格だっていうんですよね。
真田さん家はその頃はまだ、大きい家でも無かった訳だし、
名将:信玄の家臣とはいえ、一地方武将の被官でしかないし、
主君と同格の御公家さんからの嫁さん…というのも、
考えにくいというのが、その説の主旨でした。

伊達家は御存知の通り、
幸村の子供の事では、最初、色々と幕府をはばかった経緯もあり、
通史自体が錯綜を引き起こしている場合も考えられるので、
もしかしたら…菊亭さんの件も微妙かもしれないと思うのと、
実は、
真田本家自体も「信繁母は菊亭晴季の娘」説をとっているらしいのですが、
後代の真田さんは「信繁」の事を、
世間で一般的に流布していた(と思われる)「幸村」名で、
公式に記録してしまったりしてるそうなので…、
もしかして…昔の事に関して、もう色々不明なのかな…とも思ったり。


それにしても、
実はそんな上級の御公家さんからの嫁さん、というのも、
ちょと面白いな…なんて、自分は妄想してもいます。
その場合、
菊亭さんの御家事情で…こうなったのかな??と。

たとえば。

当時は結構あった話として、
御公家さんは経済的に困窮していたので、
中国の大内氏と結んだ例のように、
(彼は官位をお金で買ってましたよね)、
武田だけでなく、真田にもそういう事情での輿入れだったとか、
(だけど…真田さん家がそんなに裕福だったとは思えないけど…)
菊亭さんの、その娘、
実は身分の低い女性とのお子さんだった(=婚外子)とか、
(実際「養女」説もあるらしいし)、
その上、
真田さん家に対して、何か菊亭さんが恩義を感じる出来事があったとか、
ホントは娘を武田家に入れたかったけど(武田のバックアップを期待して)、
三条家の手前もあって、
舅さんが昌幸の人物を見込んで、こっちにしたとか…、
いろいろと大妄想ぐるぐるでございますwww。

果たして真相は…如何に!!。
(でも…事実の確認は…今では難しいかもしれませんね…)
しかし!これだから、歴史探訪は楽しいですv。
Posted by 夏草 at 2011年08月17日 00:00
この間の補足として、昌幸正室は、菊亭晴季女ではないと私も承知しています。
しかし、幸村の実父は昌幸ではなく、菊亭晴季女との婚姻が可能な、1541年生の男性です。
ネット上に掲載された、仙台真田氏の系図には、昌幸の出生年を、上の年代生で記載しており、これは、上の年代生の人物を、昌幸に見せかける意図により、仙台真田氏系図があるのだと思います。
昌幸が幸村の実父ではない根拠は、仙台真田氏主張の幸村生年月日と、[系図纂]記載の幸村生年月を元に割り出した、彼の本当の出生年月日から、266日遡った時期に昌幸が、戦のため甲府にいない点にあります。
仙台真田氏は、幸村実母を[大庭氏]として、仙台藩へ申告していますが、[寛政重修諸家譜]にて幸村実母は、[某氏]と記載されるべきところを、そうではなく、信之と同腹扱いになっています。
[寛政譜]編纂当時の松代藩は、井伊氏から迎えた養子が藩主なので、幸村実母は[某氏]扱いだったはずであり、堀田正敦もそれを把握していたと思います。
こうした状況より、[寛政譜]の記載を根拠とすると、幸村実母は菊亭晴季女と言えるのです。
Posted by 奈々 at 2011年08月20日 01:47
長七実母について、大八の妾ではないと解釈したのは、[仙台真田代々記]著者が、把握していないのではなく、ある事情により、記載できないのだと考えたからです。
幸村は己の子女を、伊達政宗に匿って貰う見返りとして、大人の事情に基づく行為に至り、それを仙台真田氏関係者は、公表したくないと思われます。
これは直接的に書けないので、上の表現を使いますが、私は幸村の息子が生き残れたのも、そういうことがあったのだと思います。
Posted by 奈々 at 2011年08月20日 03:37
>奈々様

こんばんは。

遠い時間の向こうに、
いろいろな事があったかも…と思うと、
私も本当にいろいろな事が想像膨らみます。

コメントどうもありがとうございました☆。
Posted by 夏草 at 2011年08月20日 20:36
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